川端 絵美/オリンピアン(元アルペンスキー日本代表)

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かわばた・えみ/1970年札幌市生まれ。伏見中学校卒業後、フランスのシャモニー国立スキー登山学校に留学し、17歳でカルガリー冬季オリンピック出場。公共財団法人 北海道スキー連盟 理事。

子どもに合わせて教え方の引き出しを増やす

「弾丸娘」と呼ばれ、アルペンスキー代表として3度のオリンピック出場を果たした川端絵美氏。現在も故郷・札幌に住みながら、後進育成に携わる。指導者や親の立場として、成長に必要な視点を語る。

ゴールから逆算して達成目標を設定する

――今の活動の概要は。

川端 : 1994年のリレハンメルオリンピック後の6月に引退発表をしました。当時は24、5歳くらいで引退する選手が多く、ケガをした左膝に自信が持てなくなっていた24歳の自分にとっても、悩みどころでした。家族やスタッフで話し合いをしました。〝日常生活も困難な状態になるまで戦ってほしくない〟という母の言葉が、引退を決断させましたね。
 翌年、会社を設立。スポーツキャスターやコーチ、レーシングキャンプの企画運営、スキー教室などをしながら今に至ります。
 現役時代に、大学入学資格検定(大検)を受検し、合格。通信制大学に入学しました。しかし、新しい仕事と学業との両立は難しく、断念。「私はこれから何をしたいのだろう」というテーマは、引退後からずっと考え続けています。〝今〟を考えるのに精一杯で、〝強い意志を持った目標設定〟が不明確なのかもしれません。

――ご自身と後進の選手を比べて、違いを感じる点は。

川端 : 選手の実年齢より精神年齢が幼いのではと感じています。夢に向かって頑張っているのですが、思いの強さや重みが感じられない気がしています。
 私自身は中学卒業後、進路選択の時には有名校からオファーをいただきました。しかし、競技で世界に行きたいという思いが強く、本場で学ぶためにフランス留学を選択。同時に、留学を支援していただいた企業に所属しました。女性選手初の海外留学者として注目されていたこともあり、プロ選手として結果を出さなければならない責任を感じていました。年上の方との接点が多かったこともあり、当時の自分は早熟だったとも思います。
 世界で活躍する選手になるためには、選手本人がそれぞれの年齢でどんな目標を達成するのか、最終目標から逆算して考える必要があると思います。エンゼルスの大谷翔平選手が良い例ですね。私自身も選手としての設計を考えるように指導され、実践していました。軌道修正を加えながら、選手として今取り組みたいことと、人生の時間軸を考えていくことはとても大切であり、競技外でも活用できることだと感じています。
 現在では、昔に比べて多様な進学方法が増えました。ただ冬季競技に関しては、学校でなかなか練習を行えません。国内のトップ選手は海外遠征が多く、通学が難しくなり、その分宿題や自習をすることになります。私の場合は、自宅にいる期間に家庭教師をつけてもらっていました。オンラインの制度が発展すると、もっと選択肢が増えるだろうと期待しています。
 親としても多様化している選択肢を学び、子どもと向き合うことが必要だと痛感しています。選んだ道は将来変わるかもしれませんが、その時の最善を考えることが大事なのかなと感じています。

指導者に必要なことは子どもに寄り添う覚悟

――指導者や家族に求められることは何でしょうか。

川端 : 自分ではもう叶えられない夢を選手が見せてくれていること、一人の人生のある部分に大きく関わっていることを忘れてはいけないと思っています。
 どんなことでも最低限のカリキュラムはありますが、それをひもといて理解させるための方法は十人十色。マニュアルはありません。そこに指導者の知恵が求められます。アプローチ方法は何通りもあり、教える側が試行錯誤しながらやっていく。ただ、人は基本的に自分が経験したことしか知りませんし、比べることもなかなかできません。だから、本を読んだり講習に参加したりして、教え方の引き出しをどんどん増やしていかなくてはいけないとも思います。
 その過程において、古いやり方が見直されることもあっていいのではないでしょうか。高い技術を学ぶ前に、体力という土台づくりがなければ、勝ち続けることはできません。大事なことは、新旧の方法から選手に合わせてオーダーメードすること。子どもの将来のために、家庭というチームをどう形成していくかも大事ですね。

――厳しい指導方法は、親や指導者のエゴでさせているのではと言われることもあります。

川端 : 私の父の指導法はまさしく彼のエゴでした(笑)。けれど、その中に愛情がありました。父は、私をスキーで世界に送り出すことをずっと考えて、私の人生設計を作り、実行していました。その途中で、たとえ娘が成功できなくても全てを自分が支える覚悟を持っていたことを、かつて悩んでいた私に打ち明けてくれました。
 過剰な方法は見直されるべきですが、どこかで耐えて頑張らないと、どこにも到達できないのも事実です。指導者や親としては、勇気と覚悟を持って子どもの将来をフォローしていきたいです。

――札幌のオリンピック招致について。

川端 : 最初は驚きました。自分の住む街でもう一度オリンピックをするというのはすごいことだと思います。ただ、市民感覚としては財政状況も気になりますよね。
 72年の札幌オリンピック当時、私は2歳。札幌の成長と共に自分も成長し、多くの恩恵を受けてきました。では今の世の中でオリンピックを行ったときにどういう成長を遂げられ、一過性ではない継続ができるか。十分な費用対効果はあるのか。それをしっかり考えなければならないとは思います。
 選手時代、海外で札幌から来たというと、「知っているよ!オリンピックをやったところでしょう!」とよく言われました。自分のアイデンティティーである故郷が広く認識されているのは誇らしい気持ちでした。さまざまな問題をクリアでき、私たちの住む素晴らしい北海道・札幌をもう一度世界に知ってもらい、子どもたちに世界に名高い街を残せたら嬉しいと思っています。

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