【無料公開】石屋製菓名誉会長の故・石水勲さんが情熱を燃やし続けた…北海道コンサドーレ札幌の草創期マル秘裏話※2016年3月号再録
2024年9月13日、北海道コンサドーレ札幌と北海道電力がクラブパートナー契約の締結を発表。サポーターからは喜びの声とともに驚きの声が上がった。本誌16年3月号ではチーム創設前後の出来事や誘致活動の裏にあった秘話を紹介。両社の過去の関係性について触れていた。以下、再録。※一部、当時のままの表現になっている部分があることをご了承ください。
コンサドーレ札幌は、サポーター持ち株会が株式の過半数を占める市民球団だ。だがなぜ市民球団になったのか。そこには「北海道にチームが必要だ」という、純粋な思いがあったからだ。当時の関係者に聞いた、設立前夜の裏側とは。
「札幌の今後を考えたら絶対必要」
Jリーグ創設当時の1993年、全国に波及したブームは、各地の自治体やサッカー関係者に「おらがまちにもチームを」という機運をもたらした。
北海道も例外ではなく、道サッカー協会は93年2月にチーム誘致の特別委員会を設置。札幌青年会議所(JC)も94年に署名活動をおこない31万筆を集めるなど、その動きが広がった。
Jリーグのチームを設立するための方法は2つ。地元チームを強化して、地域リーグから順に昇格していく「自生型」と、JFLなど上位カテゴリー所属のチームを招く「誘致型」だ。
93年7月、日本航空(JAL)札幌支店勤務の浜田翼さんは、友人で札幌の出版社・イエローページ社長の野村満さんとともに呼び集めた、11人の仲間と会合を持った。お題はもちろん「北海道にJリーグチームをつくるにはどうするか」。東芝サッカー部誘致によるコンサドーレ札幌誕生の影で〝実働部隊〟として奔走したのは、この11人だった。
浜田さんらはまず、道内サッカー界一の名門・北海道電力サッカー部を母体にしようと北電本社を訪ねた。
「最短でJリーグを目指すなら当然北電さん、となる。真っ先に話をしたが『公共事業を生業とする会社として、サッカー部のプロ化は考えられない』と断られた」(浜田さん)
浜田さんたちが次に話をしたのが、道社会人リーグ所属のクラブチーム「札幌蹴球団」。94年シーズンに強化を図ったが、上位リーグであるJFLへの昇格はできなかった。
他方、94年秋ごろから札幌JCをはじめ札幌市や道、経済界、道サッカー協会などは運動の共同推進組織設立を模索。しかし、各界の思惑ばかりが交錯し、リーダーシップを発揮して取りまとめる者もいなかった。
だが94年末に転機がやってくる。浜田さんらに対し、Jリーグ関係者が東芝サッカー部監督の高橋武夫さんを紹介したのだ。
東芝との交渉に先立つ95年1月末、浜田さんらは市民組織「札幌SJクラブ」を設立。行政や市民、企業などを設立運動に取り込み、東芝へ地元の盛り上がりを示そうという思惑があった。
このSJクラブの会長にと浜田さんらが白羽の矢を立てたのが、石屋製菓社長の石水勲さんだった。
前出の野村さんや浜田さんが石水さんのもとを訪れると、石水さんは当初、困惑したのだという。
「俺、ボクシングなんだよな」
東洋大時代はファイティング原田に傾倒してボクシング部に所属。中学・高校時代は野球少年でもあり、従前からプロ野球チームの札幌誘致を望んでもいたという。それでも2人が石水さんに頼み込むと「よし、わかった」と協力を快諾した。
「『地元のオーナー企業のほうが、出資を検討してもらいやすいのでは』と考え、野村さんが数社提案してくれた。その中で真っ先に頼みに行ったのが石水さん。『札幌というまち、市民の今後を考えると、サッカーチームは絶対に必要だから』と口説いたんだ」(浜田さん)
余談だが、その際こんなエピソードが残っている。
「石水さんの母・キヨノさんは会社の金庫番。とにかくお金の使い方に厳しく、そこは石水さんとは正反対だった。石水さんは会長を引き受けると決めた際、意を決してキヨノさんに『お金がいるんだ』と、出資金の捻出を頼み込んだ。キヨノさんは『いくらいるんだ』って。石水さんはたしか8ケタ(数千万円)程度と言ったんだけど、キヨノさんはひとケタ多い額を用意してくれた。コンサは『使うべきところ』だと考えてくれたんでしょうね」(当時を知る関係者)
手伝わなくていいから邪魔はするな
95年2月ごろから本格的に始まった交渉は、当然難航した。東芝はこの時点で仙台をはじめ7都市からの誘致の話を断っており「いまさら移転はできない」という見方もあった。だが6月には監督の高橋さんが厚別を初視察。7月には移転の受け皿をつくるための準備会社を設立するなど、課題をクリアしていった。
東芝から内諾の感触を得たのは11月。翌12月には移転が正式に決まった。
ところで、財界さっぽろ本誌96年1月号には、当時の内情を暴露した記事が掲載されている。
「北電会長で道経済連合会の戸田一夫会長や道サッカー協会の樫原泰明会長が『どうせ東芝は来ない』と、いい加減な対応をした」
「移転が決まると、戸田会長が東芝の関係者を呼んで『受け皿ができていないから来てもらっても責任は持てない』と話した」などの記述がある。なぜそのようなことになったのか。
当時を知る、複数の関係者の話を総合するとこうだ。
「95年の正月に道内テレビ局で『新春激論生トーク・北海道にJリーグを!』という深夜番組が放送された。当時は推進組織の設立が進まない中で『北海道はやる気があるのか』などがテーマだった。その番組の終盤、パネリストとして出席したSJクラブのあるメンバーが、道サッカー協会幹部の煮え切らない発言に業を煮やし『もう何も手伝ってくれなくていいから、邪魔だけはしてくれるな』と言い放った。あの一言で、水面下でしか知られていなかった、同協会の消極的な姿勢が道民に露わになった」
「協会幹部は赤っ恥をかかされ、同協会会長の樫原泰明さんや、北電から来ていた協会幹部らが激怒した。あれ以来、表に出ない部分で協会と北電は非協力的になった。樫原さんは97年3月に亡くなったが、協会や北電に『コンサドーレには協力するな』という〝遺言〟を残したという噂もまことしやかに伝わった」
遺言は話半分にしても、財界の重鎮らはチーム経営の先行きを懸念して発言したのだろう。それでも、推進派が冷や水を浴びせられたことには違いない。
だが、とにもかくにも誘致は決まった。96年4月、運営会社「北海道フットボールクラブ」が設立。チーム名は公募で「コンサドーレ札幌」に決まった。
「濁音と伸ばし音があるチーム名は力強く聞こえる、というセオリーに合致していた。応募案はカタカナだったが、デザイン面を考慮し『C』で始まる綴りもその時決めた」(浜田さん)
設立当初の資本金は約8億円。市民持ち株会が同年8月までに1億2870万円を集め、道、札幌市も計3億円を拠出。同年末に資本金は15億円まで増えた。
一方で、JFL5位に終わり昇格を逃した初年度の決算は約8億円の赤字。広告・入場料収入の計4億6500万円に対し、人件費が6億円超となったのが響いた。その後もコンサドーレは度重なる経営危機に悩まされ、財界人の懸念は、図らずも的中した。
浜田さんは「私は北海道が大好きで、希望を出して転勤してきた人間。道民の、札幌市民のためにと走り回ってやっとの思いでできたチームでした。いろいろ危機はあったけど、20年もの間道民に愛され続け、存続してきました。96年5月、厚別でのホーム初戦は、平日の夜なのに、ゴール裏はサポーターで埋め尽くされていて、チームを創って良かったと心から思った。その気持ちは今も変わりません」と語っている。