鹿内信隆 フジテレビ社長【1967年8月号】

©財界さっぽろ

リラックスした表情の 鹿内信隆氏(右)

どんな企業が伸びているかを地球儀を見ながら考える

 フジサンケイと言えば、日本を代表するメディアグループだ。60年代、その創設で中心的な役割を果たしたのが鹿内信隆だった。鹿内は道産子で、由仁町の出身。岩見沢中学、早稲田大学卒。インタビュー時、鹿内は55歳。フジテレビのほか、ニッポン放送社長、産経新聞副社長を務めるなど、花形財界人として活躍していた。
 鹿内は取材で故郷・北海道への思いを、こう吐露している。
「北海道は1次産業あるいは2次産業しかだめなところだと考えるのは、いけないと思う。それに北海道は寒い、雪国だなどと引っ込み思案になることはないんですよ。札幌はランカシャーより南にあるんです。少しも寒さなんか気にすることはないんですよ。原始産業に経済全体が束縛されるというのは、独特の日本的事情です。国際的な視野で見た同緯度あたりでは、どんな企業が伸びているかを、地球儀を見ながら考える必要がありますね」
 鹿内は北海道に適している企業として、精密工業をあげていた。
「私は北海道大学に精密機械科を設置しなければダメだと思う。ここを出なければ使いものにならんというほどの権威と雰囲気を育てることだ」
 歴代の開発庁長官にも鹿内は厳しい見方を示した。
「大臣になりたがっている亡者どもの欲求不満を解消するために、開発庁長官のポストが利用されている。北海道はすでに新しい時代に入っているんですから、新しい構想というか、技術革新を迎えた新しい立場といいますか、ニュー・ビジョン(新未来像)を検討しなくてはいけない」
 その後、鹿内はフジサンケイグループの初代会議議長に就任。その権力は息子に引き継がれたが、鹿内家は数奇な運命をたどることになる。 

こちらもおすすめ