大野伴睦 自民党副総裁【1964年新年号】

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右から寿原正一衆院議員、本誌創業者・薩一夫、大野判睦氏

クラーク博士ではなく、ワシが北海道を明るくする

 大野判睦は戦後、北海道の開発に大きな足跡を残した。北海道開発庁長官の頃、〝世紀の大工事〟と言われた苫小牧工業港建設の立役者となった。
 インタビュー当時は自民党の副総裁。東京都内の大野の私邸で敢行された。
 大野は明治大学在学時、初めて北海道を訪れ、こう回想していた。
「とくに網走の海岸線、阿寒の雄大な景観、北海道はどこへ行っても立派な観光地だ。いいところだョ。それでボクは一頃、北海道で一旗揚げようとも考えた。花村覚三郎(元衆院議員)という人が、お前が北海道で農場をやるなら、資本を出してやるからやってみんかと言われた。今頃、八雲かどっかで大野農場なんていうのを経営していたかもしれん」
 その後、大野は政友会総裁だった〝庶民宰相〟原敬から「お前は政治家になるんだ」と勧められ、政界に足を踏み入れた。
 1955年、保守合同により自由民主党が結党され、55年体制の幕が上がる。実は59年の岸信介政権時、大野は次期首相の座を約束されていた。日米安全保障条約改定に大野派が協力する密約だった。当時、証文まで作成されていた。
 ところが、岸はその約束を反故にし、佐藤栄作が岸の後を継いだ。永田町でいまなお、〝政界一寸先は闇〟を象徴するエピソードとして、語り継がれている。
 インタビューで、本誌は大野に「総裁をもう断念されたんですか」と直言している。
 大野の答えは明快だった。
「岸とはっきり次はお前に譲るという覚書まで取り交わしたのに、岸がひっくり返ってあきれてしまい、もうなる気になれん。いまの方が気が楽だ」と。
 取材の最後は、ユーモアたっぷりに北海道にエールを送った。
「僕が北海道開発庁長官になった時、挨拶でこう言ったんだ。〝クラーク博士は北海道をクラーク(暗く)するかもしれんが、大野は北海道を明るくするんだ〟と言ってね。北海道が好きなんだから、ワシでできることは何でもしてやるサ」
 大野の秘書を務めていたのが〝北海のヒグマ〟こと中川一郎。北海道発展に寄与した人情政治家を育てあげた。

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