【追悼】元知事・堀達也逝去、財界さっぽろが迫った人物評伝を再録③「財界さっぽろ記者が見た、北海道〝傑物〟列伝・堀達也編」(2014年12月号掲載、無料公開)
堀達也氏
北海道知事を2期8年務めた堀達也氏が5月16日午前5時29分、札幌市内の病院で肺腺がんのため死去した。90歳。
堀氏は樺太(サハリン)出身。樺太引き上げ後にオホーツク管内遠軽町に移り住む。遠軽高校、北海道大学農学部卒業後の1958年に道庁に入庁。主に林務畑を歩き、横路道政時代には知事室長、副知事などを歴任した。
95年、当時の社会党、公明党、民社党、新生党、連合の〝非自民5団体〟からの推薦を受けて知事選に出馬。自民党が推す伊東秀子ら4人との戦いを制した。
知事就任後はさまざまな諸課題の対応に追われた。
就任わずか半年後、〝官官接待〟が直撃。一連の〝道庁不正経理・裏金問題〟が追い打ちをかけた。その後も、官官・裏金問題と公共事業をめぐる口利き・談合問題の〝あしき古い道庁〟の処理にあたった。96年に豊浜トンネル事故が起き、97年には旧北海道拓殖銀行が破綻した。
一方で、97年に全国に先駆けて大型の公共工事を見直す「時のアセスメント」を導入を表明し、士幌高原道路やダム事業などの中止を決断した。
99年の知事選では、自民や旧民主党を含む主要5政党の推薦を受け、道政史上初の保革相乗りで再選を果たした。
「時のアセス」のほか、道庁の構造改革に積極的に取り組んだ堀氏だったが、2000年9月に北海道電力の泊原発3号機増設、同10月に幌延深地層研究所建設を相次いで容認した。これにより、堀道政を支えてきた民主や連合は「自民寄りだ」として距離を置いた。そして思うように支持率も上がらなかった。
3選に意欲を示していた堀氏だったが、2選目に相乗りしてきた自民からの支持は得られなかった。最後は党本部総務局長だった町村信孝氏に引導を渡される形で出馬を断念した。
知事引退後は、北海道スポーツ協会会長、札幌大学理事長、北海道開拓記念館館長などを務めた。
堀氏の訃報を受け、北海道新聞社は死去翌日(5月17日付け)、大きく紙面を割いた。前知事の高橋はるみ氏、自民党参院議員の鈴木宗男氏、元副知事の山谷吉宏氏、アークス会長の横山清氏、日本旅館協会元会長の浜野浩二氏、ワカサリゾート社長の若狭高司ら、堀氏と関係のあった人物のコメントを交えながら、堀氏の実像を描いた記事を何本も掲載した。同じく紙媒体に携わる者として、その情報量と取材力には感服する。
本誌でも、過去、堀氏に迫った〝読み物〟を世に送り出してきた。そのうちのいくつかを再録する(肩書きなどは掲載時のまま)。
◇ ◇
勇退会見で記者に「バカ」
吉田茂首相が1953年2月28日の衆院予算委員会で、右派社会党の西村栄一議員の発言に激高して「バカヤロウ」と言い放ち、解散・総選挙に追い込まれた次第は、〝バカヤロウ解散〟といわれる。
道内でも記者会見で思わず「バカ」と口走った人がいる。堀達也さんだ。
2003年1月16日、堀さんは「激動の2期8年、私に課せられた役割は、20世紀の古い北海道から21世紀の新しい北海道に〝改革の架け橋〟をかけることではなかったかと思う」と語り、知事3選断念を表明した。
ところが、同じような質問が続いたことにいら立ち、その記者に向かって「何回も言わせるな、バカ!」と言ってしまったのだ。
実は、本誌記者も堀さんに露骨に嫌な顔をされたことがある。本誌の創業オーナーに「堀知事にこれこれしかじかを頼んでこい」と言われ、知事公館に出かけたことがある。その日、堀さんは風邪をひいて体調が悪く、応接室の椅子に横たわるように座っていた。記者が用件を伝えると堀さんは、「君、そんなことを言いに来たのか」とうんざりした様子。記者の顔が恥ずかしさから真っ赤になったのは言うまでもない。
1年ほど前、会合で隣の席になった堀さんに、そんなことこどを含め昔話をさせてもらったら、「君ね、ぼくだって、なんでこんな時に、こんなところに来なきゃならないのかと思ったことは多々あるよ」と言ってくれた。記者は胸の奥にたまっていたオリが十数年の時を経て、やっと消えた思いがした。
堀さんという人は元来、気配りの人である。横道孝弘知事の下、知事室長、公営企業管理者、副知事と進んだ。堀さんは、ある意味、横路道政の汚れ役を一身に引き受けていた。
横路さんの勇退にともない非自民8党派の統一候補となり、1995年4月の知事選で初当選を飾った。その際、「堀さんはあくまで黒子に徹すべき存在、自分が役者として表舞台に立つのはおかしい」という声も一部にあったが、かき消えていった。
苦労の連続だった8年間の知事時代
だが、知事になってからの堀さんは苦労の連続だった。時代背景も堀さんに試練を強いた。
歴代の北海道知事の在任期間を列記すると、田中敏文さん47年5月~59年3月、町村金五さん59年4月~71年3月、堂垣内尚弘さん71年4月~83年3月、横路さん83年4月~95年3月、堀さん95年4月~2003年3月、高橋はるみさん03年4月~、となる。
田中さんは戦後の混乱期に知事となったが、経済情勢はどん底から上向いていった時期に当たる。町村さん、堂垣内さんの時代は、日本の高度成長期。横路さんの任期中はバブル景気の真っ最中だった。
しかし、堀さんはバブル崩壊で景気が急落した後に知事に就任した。98年11月17日には北海道経済を支えていた拓銀が経営破綻した。堀さんは道の財政再建に手を付けなければならない一方、落ち込んだ北海道経済の立て直しという、二兎を追わなければならなかった。
政界の事情通は次のように語る。
「堀さんは知事になってから苦悩の日々だった。知事になってからすぐ、官官接待、裏金問題が表面化し、この火消しに追われた。96年には網走出張中に豊浜トンネルの崩落事故が起こり、その対応が役人的体質だと批判を浴びた。99年には苫東会社が破綻した。道住宅公社の債務超過問題、エア・ドゥへの出資、道営競馬、道立病院、石狩開発など、頭の痛い問題がめじろ押しで、在任中は気の休まることがなかったのではないか」
そして最大の痛恨事が、知事3選の断念だ。まず道政与党だった民主党と連合が〝堀知事は自民党寄りだ〟として不支持を表明。次いで2期目から相乗りで与党になっていた自民までもが、経産省経済産業研修所長(前北海道経産局長)を担ぎ出すに至った。
自民道議の大半が堀支持を表明する中、町村信孝さんを中心とする自民国会議員が堀さんを見限った裏にはムネオ問題がある。
堀さんは道政を遂行してく上で当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった自民の鈴木宗男さんを頼った。その姿を他の自民国会議員は苦々しく思いながらも、鈴木さんの権勢の前に沈黙を強いられた。
ある国会議員は「堀さんは気に入らないが、新たな候補を選び戦うには、カネも時間もない。それより堀知事に問題を全部背負わして、あと4年汗をかいてもらったほうがいい」とまで言っていた。
ところが、ムネオハウスに代表される鈴木バッシングが突如わき起こり、鈴木さんは失脚する。その途端、今度は堀降ろしが始まった。
03年1月16日、堀さんが勇退会見を行った。会見終わり知事室に戻った堀さんは「8年間、精いっぱい走ってきたよな」とつぶやいた。それを聞いていた馬籠久夫知事室長は、涙をボロボロ流し、ついには号泣した。
堀さんは時代には恵まれなかったかもしれないが、部下には慕われた。上級職のエリートはあまり重用しなかったが、能力重視でノンキャリアの丸山達男、小原一美、鎌田昌市、西川昌利、太田敏夫の各氏を引き上げた。技術畑の眞田俊一さん、石子彭培さんらを事務系エリートが就くポストに据えたのも堀人事の特徴だった。
知事を辞めてからも経済界の堀ファンは多い。故人となったが、武井正直さん、坂本眞一さん、中島尚俊さんも堀さんとの交友関係は深かった。
しかも、連合北海道の幹部や創価学会幹部にも知己がいる。
現在は飄々(ひょうひょう)とした感じで暮らしている堀さんだが、統一地方選が近づくにしたがって、その動向が注目されることになるだろう。


