【追悼】元知事・堀達也逝去、財界さっぽろが迫った人物評伝を再録②「北海道人脈地図シリーズ、堀達也・政界・経済界・労働界編」(2009年8月号掲載、無料公開)
堀達也氏
北海道知事を2期8年務めた堀達也氏が5月16日午前5時29分、札幌市内の病院で肺腺がんのため死去した。90歳。
堀氏は樺太(サハリン)出身。樺太引き上げ後にオホーツク管内遠軽町に移り住む。遠軽高校、北海道大学農学部卒業後の1958年に道庁に入庁。主に林務畑を歩き、横路道政時代には知事室長、副知事などを歴任した。
95年、当時の社会党、公明党、民社党、新生党、連合の〝非自民5団体〟からの推薦を受けて知事選に出馬。自民党が推す伊東秀子ら4人との戦いを制した。
知事就任後はさまざまな諸課題の対応に追われた。
就任わずか半年後、〝官官接待〟が直撃。一連の〝道庁不正経理・裏金問題〟が追い打ちをかけた。その後も、官官・裏金問題と公共事業をめぐる口利き・談合問題の〝あしき古い道庁〟の処理にあたった。96年に豊浜トンネル事故が起き、97年には旧北海道拓殖銀行が破綻した。
一方で、97年に全国に先駆けて大型の公共工事を見直す「時のアセスメント」を導入を表明し、士幌高原道路やダム事業などの中止を決断した。
99年の知事選では、自民や旧民主党を含む主要5政党の推薦を受け、道政史上初の保革相乗りで再選を果たした。
「時のアセス」のほか、道庁の構造改革に積極的に取り組んだ堀氏だったが、2000年9月に北海道電力の泊原発3号機増設、同10月に幌延深地層研究所建設を相次いで容認した。これにより、堀道政を支えてきた民主や連合は「自民寄りだ」として距離を置いた。そして思うように支持率も上がらなかった。
3選に意欲を示していた堀氏だったが、2選目に相乗りしてきた自民からの支持は得られなかった。最後は党本部総務局長だった町村信孝氏に引導を渡される形で出馬を断念した。
知事引退後は、北海道スポーツ協会会長、札幌大学理事長、北海道開拓記念館館長などを務めた。
堀氏の訃報を受け、北海道新聞社は死去翌日(5月17日付け)、大きく紙面を割いた。前知事の高橋はるみ氏、自民党参院議員の鈴木宗男氏、元副知事の山谷吉宏氏、アークス会長の横山清氏、日本旅館協会元会長の浜野浩二氏、ワカサリゾート社長の若狭高司ら、堀氏と関係のあった人物のコメントを交えながら、堀氏の実像を描いた記事を何本も掲載した。同じく紙媒体に携わる者として、その情報量と取材力には感服する。
本誌でも、過去、堀氏に迫った〝読み物〟を世に送り出してきた。そのうちのいくつかを再録する(肩書きなどは掲載時のまま)。
◇ ◇
6月19日の旭日重光章受章祝賀会をはじめ、叙勲を祝う会合が続いている前知事・堀達也。7月号の「堀人脈・赤レンガ編」に続き、本号では「政界・経済界・労働界編」をおとどけする。(文中敬称略)
知事選出馬〝決断の間〟の一部始終
1994年(平成6年)10月24日。知事選の6カ月前のことだ。
札幌グランドホテルで、自民党道議・橋浪蔵の議員在職15周年の記念セミナーとパーティーが行われ、終了後、関係者のなおらいの場がススキノのすし屋にセットされていた。
そのすし屋に場を移した平野明彦ら複数の道議や、新聞記者連中がワイワイやっているところへ、少し遅れて副知事の堀達也が姿を見せた。
すでに連合北海道と社会党、公明党、民社党、新生党の〝非自民5団体〟から次期知事選への出馬を要請されていた堀。
一方で自民、経済界は、さきがけの鳩山由紀夫の擁立を目論んでいた。
当時、堀の出馬はほぼ確実視されており、堀がいつ正式に立起表明するかに焦点が集まっていた。
そんな時だから、新聞記者はあれこれかまをかけ、堀の表情をうかがった。
「鳩山さんが出たらやらないのか。出てもやるのか」 しつこく食い下がる記者に、ほろ酔い気分も手伝ってか、あるいは知事選に向けた高揚感からか、堀はつい口をすべらせる。
「やるしかないでしょう。ここでまできた以上、(出馬要請を)断る理由はない。鳩山さんが出ても私はやります」と。
その瞬間、道新の五十嵐正剛、タイムスの千葉敏紀ら記者はクモの子を散らすように、外へ飛び出し、電話にかじりついた。
翌日の道新一面トップにでかでかと「道知事選、堀氏が出馬を言明」という記事が躍った。
爾来、このすし屋の部屋は〝決断の間〟と称されるようになった。
これにはもうひとつのエピソードが加わる。
実は、橋浪蔵はこの日、もう1つ、経済人のためのなおらいの場を設けていた。
そこには王子製紙、日本製紙、トヨタ自動車、出光石油、日軽金など本州大手企業の北海道のトップがズラリと顔を揃えていた。
後に、堀が民間副知事として起用したホクレン専務の西村博司もこの場にいた1人だ。
堀は最初にこちらに顔を出し、そこで明確に出馬の決意を述べ、選挙での支援を要請している。
で、ここでは「正式表明はまだなので、このことは一切口外しないように」と箝口令がしかれた。
ここから堀が、次のなおらいの場にきて、口をすべらせてしまったのだ。
翌日、朝刊を見てみんな飛びあがった。
「箝口令がしかれていたのに誰がもらしたんだ」
「俺じゃない。誰だ」
まもなく犯人が判明する。「本人がしゃべっちゃったらしい」――
その年の6月には、中央では自・社・さきがけ連立の村山富市政権が発足したばかりだった。
中央は自・社・さきがけだが、道知事選の方は〝非自民5団体〟による堀擁立の動きと、自民党による、さきがけ・鳩山由紀夫の擁立の動きが進行。
中央との〝ねじれ〟が知事選をめぐる複雑なドラマにつながっていった。
鳩山由紀夫の知事選立起をストップ
堀達也と橋浪蔵の盟友関係については、前号(赤レンガ編)でも少しふれたが、そもそもこの2人は激しい対立関係にあった。
91年(平成3年)4月、横路孝弘が3選を果たす。
このときの道議選で、横路は、自民の永井利幸に刺客を放つなど、あちこちで刺激的な〝自民潰し〟を仕掛けた。
司令官は時の知事室長の堀。対する自民道連の選対委員長が橋だった。
3選した横路は、腹心の堀を副知事に起用しようとした。だが橋を筆頭に自民が〝堀憎し〟で、この人事に同意せず、結局、堀は公営企業管理者に回り、副知事就任は2年遅れることになった。
橋が率いる党内最大派閥・さつき会の窓口として、横路は、筆頭副知事の鈴木正明に因果を含めた。だが、対立関係にあったとはいえ、その能力を高く買っていた橋は、堀を逆指名する。
〝昨日の敵は今日の友〟となったのだ。
堀の腹心で、橋の同窓(中央大)の丸山達男が仲を取り持ったといわれる。
橋は堀の知事選出馬の環境整備にも意を尽くしたが、最大の出来事は、鳩山由紀夫の知事選出馬を橋がつぶしたことだろう。
堀が出馬表明した後、鳩山由紀夫も立起のハラを固め、夫妻で当時の道経連会長・戸田一夫と会い、「知事選に出ます」と頭を下げた場面があった。
鳩山は、旧南条徳男の地盤に、落下傘候補として東京からきている。
南条の後は副知事だった三枝三郎が継いでいたが、落選。三枝が南条家に詫びを入れ、地盤を返上した。
南条の秘書あがりの橋や、高橋賢一ら南条の子分衆は、鳩山家と相談、鳩山由紀夫をつれてきたもの。 橋は、現在も鳩山の有力な後ろ盾である。
吉川貴盛の父、東洋実業創業者の吉川昭市は、若い頃、鳩山一郎の友愛運動に身をていしており、吉川も鳩山の落下傘出馬に深くかかわっている。その関係で、吉川貴盛も友愛運動をやり、鳩山邦夫の秘書もやった。
鳩山家の方針は「鳩山家から将来の総理総裁を出す」というものだった。
橋はあらためて鳩山家の意向を確認し、「鳩山家は知事立起を望んでいない」として後援会を「知事選出馬反対」でまとめた。
鳩山は悩む。
同時に、自治労道本から全国自治労のトップにのぼりつめ、自・社・さきがけ連立の村山内閣生みの親でもあった後藤森重も、村山首相に接触、鳩山立起にストップをかけるよう働きかけていたという。
最後は、村山首相が「これからも中央で働いてほしい」と鳩山を説得。鳩山は知事選出馬をやめた。
「あれだけはっきりと知事選に出ると言ったのに…鳩山由紀夫という男は信用できない」と戸田一夫は終生、鳩山と距離をおいた。
歴史は〝帰らざる河〟だが、もし鳩山が知事選に出ていたら、堀知事は誕生しなかったのではないか。
その意味からも、堀にとって橋の存在は重いのである。
目下、鳩山由紀夫は総理に1番近いポジションにいる。6月27日に札幌で鳩山由紀夫を励ます会が開かれたが、発起人として堀が名前を連ねた。
これも橋人脈が背景にあってのことである。
堀は知事になってから、岩本允、湯佐利夫ら自民党の実力者とも緊密な関係になっているが、道議会の中ではやはり橋(さつき会)との距離感は別格だった。
連合北海道、創価学会と太いパイプ
前出の後藤森重は、自治労道本委員長から全国自治労の委員長となり、連合会長代行も兼務。〝後藤天皇〟と称された労働界の大立者。村山政権誕生の陰の立役者でもあり、「横路新党」づくりにも積極的に動いたことがある。当然、堀との関係も非常に近い。
だが後藤の名声は、自治労の乱脈裏金事件で一瞬にして地に落ち、失脚。後藤は現在、堀の選挙を応援してきた小西政秀の北武グループに身を寄せている。
先頃、昨年急逝した堀夫人の一周忌が執り行われ、主賓席には横路夫妻、橋浪蔵、湯佐利夫、岩本允らが並んだ。挨拶のたぐいはなく、元連合北海道会長(元北教組委員長)の兼古哲郎が献杯の音頭をとった。
これを見て「最初の選挙で本当に世話になった兼古さんを立てるあたり、いかにも義理、仁義を重んじる堀さんらしい」というささやきがもれた。
堀の最初の知事選は、連合北海道・社会・公明・民社・新生の非自民5団体がバックだったが、選挙の中核的な役割を果たしたのは、連合北海道会長の兼古哲郎と、事務局長の渡辺健一だった。
渡辺は炭労あがりで、連合北海道の初代事務局長となり、兼古の後の会長になっている。知事選では、渡辺は事務局長として非自民5団体の接着剤となり、堀道政誕生の原動力となった
渡辺は堀の資金団体の役員もやり、堀とはきわめて近い関係。
現在は自公連立政権だが、当時、公明党は野党で、知事選でも非自民5団体として堀選挙をやった。
そんな関係もあって、創価学会北海道の道長・浜名正勝と堀の関係も一段と深まった。もともと浜名は堀と同じ北大農学部だ。同窓で学部も同じということもあって、堀と浜名の関係はいまなおきわめて緊密だ。
浜名は、対外的な文化活動に積極的に取り組んでおり、幅広い人脈を築いている。現在は、創価学会北海道の総道長。
堀が知事時代は、同窓同学部の知事室長・福田昭夫が浜名との窓口となっていた。民主党の鉢呂吉雄も北大農学部で、これまた堀、浜名とはつながりが深い。
〝堂さん〟が大の〝堀びいき〟に
〝横路後継〟で堀が知事になった後、横路と戦って敗れた三上顕一郎は当然ながら、寺田一寿男、樫原泰明ら、いわゆる〝堂垣内一家〟と称された赤レンガOB連中は、総じて堀に冷ややかな視線を向け、車間距離をあけた。
ただ、そんな中で、〝横路嫌い〟の堂垣内尚弘元知事だけは、大の〝堀びいき〟となっていった。堀は、当選した次の日に、わざわざ堂垣内の自宅へ挨拶に出向いている。いかにも苦労人の堀らしい行動。
これが堂垣内の胸にいたく響いたのだ。
堂垣内は折にふれ、次のように語っていた。
「私が知事になったとき、社会党の知事だった田中敏文さんのところへもきちんと挨拶にいった。それは先輩知事に対する礼儀というものだ。それなのに横路さんは知事になったとき、私のところへ挨拶にこなかった。その点、堀君はえらいもんだ。ちゃんと先輩知事に礼を尽くしてくれた」
以来、堂垣内は「堀君は北大の後輩だし…」と終始、堀応援団となり、堀3選が危ぶまれる中でも「3期目は仕上げのとき。3選をめざすべきだ」と励ました。
その後、高橋はるみの最初の選挙のとき、保守支持の堂垣内は高橋応援団に加わった。
この選挙の土壇場で、突如、堀が民主党候補の鉢呂吉雄支持を表明、波紋を広げた。このとき堂垣内は「あんなことは知事経験者のやるべきことではない」と激怒、堀の行動を強く批判。堀、堂垣内の親密関係にヒビが入っている。
6月19日に催された堀の旭日重光章受章祝賀会(発起人代表は橋浪蔵)でも、新谷は最後の乾杯の音頭をとっている。
堀知事時代、小樽市長だった新谷は、部長候補とか助役候補を何度か道に要請。 堀はこれに応えて馬籠久夫ら、信頼する側近を次々と小樽に派遣。新谷を感激させ、2人は気脈を通じる関係となっていった。
一方、エア・ドゥ会長人事で頭を痛めていた堀は、市長をやめていた新谷に頼み込み、固辞する新谷を口説き落としている。
また、堀が知事をやめた後、亀井静香北海道後援会の会長を引き受けてほしいという話が舞い込んだ。
困った堀は、これも新谷に頼み込んでいる。
「新谷先輩には足を向けては寝られない」と堀が語るゆえんである。
町村、中川、武部が鈴木宗男を警戒
もともと堀は、横路と違って社会党でもないし政治家でもなかった。
〝非自民・横路後継〟という枠組みさえなければ保守陣営にとっても違和感のある候補ではなかった。
堀自身も、横路道政12年間ですっかり冷え切った経済界・保守陣営との関係修復を意識的に進めた。
自民道連だって、知事候補選考過程で、自治省出身の鈴木正明か堀の2人に絞り込んだ時期もあった。それが連合主導の〝非自民5団体〟が、あまりにも〝非自民〟を強調しすぎたことから、自民は社会党を離党した伊東秀子をかつぐといった〝ねじれ選挙〟になった経緯がある。
堀は政策的にも、イーター(核融合実験施設)誘致に前向きな姿勢を打ちだし、むしろ支持母体の連合や社会党筋の反発を買うなど、〝非自民・横路後継候補〟という枠にこだわらない自然体に終始した。
堀の1期目の97年には町村信孝が文部大臣に、鈴木宗男が北海道開発庁長官になった。98年には中川昭一が農水大臣になり、鈴木は官房副長官に就任。
さらに堀2期目の2001年には武部勤が農水大臣になっている。
堀は1期目、2期目を通して、町村、鈴木、中川、武部ら、道内選出の政権与党実力者のパイプを使ってきた。そんな中で、道開発庁長官、官房副長官として、尋常ならざる豪腕ぶりを発揮していた鈴木に、堀は次第に傾斜していったといわれている。
「町村、中川、武部らは、鈴木宗男が開発庁を牛耳り、道庁まで牛耳ろうとしていることに警戒感を強めていた。町村、中川、武部らが、堀の3選にブレーキをかけた深層心理には、そんなこともあったのではないだろうか」(道OB)
同郷の松田、名塩らが〝堀応援団〟
堀は出身地盤の林業関係には全道に多くの人脈を持っているが、横路側近として頭角を現し、横路後継で知事選に打って出たことから、当初は経済界主流とのパイプはそう太くはなかった。
最初の知事選のときは、道経連会長・戸田一夫、道商連会頭・伊藤義郎、道経協会長・武井正直、経済同友会代表・山内宏ら財界首脳は、みな自民党がかついだ伊東秀子の応援に回っている。
とくに〝横路嫌い〟の伊藤義郎は「横路後継はだめだ」と露骨に堀攻撃をした。
とはいえ、経済界には「もともと社会党だった伊東秀子には、期待感の3倍不安感がある」といった空気も根強くなり、〝かくれ堀派〟が少なくなかったのも事実である。
そんな中、札幌商工会議所の議員会副会長だった北武総業の小西政秀や、北海道ショッピングセンターの中村憲正らは、公然と堀支持を掲げ、伊藤義郎会頭を憤然とさせた場面もあった。
堀と近かったモーターワークスの山口潔あたりも、今井春雄、岩田圭剛ら札幌の有力若手経済人を70人も結集、「堀さんの政策を聴く会」を仕掛けたりもした。
堀はそうした若手経済人の勉強会にもマメに出ており、横路の懐刀、側近中の側近として、顔は売れていたのだ。
また、同郷(網走管内出身)ということ、同じ北大の大先輩ということもあって、JR東日本の大実力者、松田昌士とは、長年、親しくつき合ってきた。
だから知事選のときは、松田らが堀のために東京に経済人応援団をつくってくれたのだ。
ナシオの名塩良一郎も同郷のよしみで堀選挙に全力を上げた1人。堀の後援会幹部をやり、資金管理団体の役員も務めた。
名塩は先頃、スペイン名誉領事を辞任したが、後任には堀が就くことになっている。これもまた名塩と堀の友情のあかしであろう。
また堀が知事選に出ることになったとき、遠軽高校同窓で応援団「遠望会」を発足させている。
初代会長はJR病院院長だった飯村攻。母校の誇りということで「遠望会」が大いに燃えたことはいうまでもない。
現在、上光証券の会長を務める木村美太郎や、札幌通運社長の木村輝美らも、堀のために走り回った口だ。
堀の選挙のためにスタートした遠望会だったが、今年、木村美太郎が2代目会長となり、政治・選挙を離れた同窓会として再スタートしたという。
先頃、道議会議長になった石井孝一も、遠軽高校で堀の先輩にあたる。
だから知事選のときは、離党覚悟で堀の選挙をやっていたことはよく知られている。
武井正直が堀の〝3選委員会〟
知事になってからの堀は、拓銀破綻、エア・ドゥ再建問題などで、道経連・戸田、道経協・武井など経済界首脳とも次第に関係を深めていく。
道の指定銀行が北洋銀行になったこともあり、北洋会長でもあった武井とは、とりわけ気脈を通じた仲となった。
武井は、堀2期目には堀の〝3選委員会〟の代表にもなり、3選に向けた環境整備に努力した。
だから、堀が3選を断念、高橋はるみが出馬することになって、経済界首脳が高橋応援に名を連ねても、武井だけは堀に殉じる形で、ガンとして高橋応援団に加わらなかった。
堀から「武井さんには武井さんのお立場もある。どうぞ自由におやりください」といったメッセージが届いて、初めて武井が高橋応援に動き出したというひと幕もあった。
ただ、伊藤義郎と堀は、表向きはともかく、いまひとつしっくりとはいっていない。
前述の通り、横路嫌いの伊藤は、はなから「横路後継はだめ」というスタンスだった。
それでも、戸田、武井らが、知事をやめて浪人をしていた堀の処遇に頭を痛めていたとき、伊藤は自分がやっていた札幌大学理事長ポストを堀に譲っている。
経済界首脳が堀処遇に意を尽くしたのは、2年前の高橋はるみの再選を視野に入れてのことだった。
堀もまた、高橋再選については「中立で行く」と言明していた。
ところが、知事選が始まるや、松田昌士らの強い要請を断り切れず、堀は荒井聰の車に乗り、またもや波紋を広げたのだ。顔を潰された形の伊藤義郎は「札大理事長を辞めてもらう」と激怒した。
堀の札大理事長の椅子は、いま現在も不安定な状況にある。
赤レンガ、道議会、林業界、労働界、政界、経済界等々、前知事・堀達也の人脈、人間関係のすそ野は多岐にわたっているが、団塊世代の「いその会」もその1つといっていい。
昭和22年の亥(猪・い)年生まれ、同23年の子(鼠・そ)年生まれの団塊世代の集まりだが、堀はひとまわり上の亥年生まれということで、会の最高顧問になっている。
「いその会」の会長は、北海道振興社長の毛利稔、幹事長は北洋銀行常務執行役員の桧森聖一。
JR北海道社長・中島尚俊、副知事・山本邦彦、前公営企業管理者・青木次郎、札幌市長・上田文雄、野口観光社長・野口秀夫、札幌振興公社社長・星野尚夫。
彫刻家・国松明日香、北大教授・井上久志、札医大学長・今井浩三、中和石油社長・杉沢達史、三越札幌店理事・相蘇恒孝、STVアナウンサー和久井薫ら60人を超すメンバーがいる。


