【追悼】元知事・堀達也逝去、財界さっぽろが迫った人物評伝を再録①「北海道人脈地図シリーズ、堀達也・赤レンガ編」(2009年7月号掲載、無料公開)

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堀達也氏の遺影(5月18日、公益社中央霊堂)

 北海道知事を2期8年務めた堀達也氏が5月16日午前5時29分、札幌市内の病院で肺腺がんのため死去した。90歳。

 堀氏は樺太(サハリン)出身。樺太引き上げ後にオホーツク管内遠軽町に移り住む。遠軽高校、北海道大学農学部卒業後の1958年に道庁に入庁。主に林務畑を歩き、横路道政時代には知事室長、副知事などを歴任した。

 95年、当時の社会党、公明党、民社党、新生党、連合の〝非自民5団体〟からの推薦を受けて知事選に出馬。自民党が推す伊東秀子ら4人との戦いを制した。

 知事就任後はさまざまな諸課題の対応に追われた。

 就任わずか半年後、〝官官接待〟が直撃。一連の〝道庁不正経理・裏金問題〟が追い打ちをかけた。その後も、官官・裏金問題と公共事業をめぐる口利き・談合問題の〝あしき古い道庁〟の処理にあたった。96年に豊浜トンネル事故が起き、97年には旧北海道拓殖銀行が破綻した。

 一方で、97年に全国に先駆けて大型の公共工事を見直す「時のアセスメント」を導入を表明し、士幌高原道路やダム事業などの中止を決断した。

 99年の知事選では、自民や旧民主党を含む主要5政党の推薦を受け、道政史上初の保革相乗りで再選を果たした。

「時のアセス」のほか、道庁の構造改革に積極的に取り組んだ堀氏だったが、2000年9月に北海道電力の泊原発3号機増設、同10月に幌延深地層研究所建設を相次いで容認した。これにより、堀道政を支えてきた民主や連合は「自民寄りだ」として距離を置いた。そして思うように支持率も上がらなかった。

 3選に意欲を示していた堀氏だったが、2選目に相乗りしてきた自民からの支持は得られなかった。最後は党本部総務局長だった町村信孝氏に引導を渡される形で出馬を断念した。

 知事引退後は、北海道スポーツ協会会長、札幌大学理事長、北海道開拓記念館館長などを務めた。

 堀氏の訃報を受け、北海道新聞社は死去翌日(5月17日付け)、大きく紙面を割いた。前知事の高橋はるみ氏、自民党参院議員の鈴木宗男氏、元副知事の山谷吉宏氏、アークス会長の横山清氏、日本旅館協会元会長の浜野浩二氏、ワカサリゾート社長の若狭高司ら、堀氏と関係のあった人物のコメントを交えながら、堀氏の実像を描いた記事を何本も掲載した。同じく紙媒体に携わる者として、その情報量と取材力には感服する。

 本誌でも、過去、堀氏に迫った〝読み物〟を世に送り出してきた。そのうちのいくつかを再録する(肩書きなどは掲載時のまま)。

      ◇                   ◇  

 前知事・堀達也が道庁を去ってすでに6年。だが〝堀人脈〟は庁内はもとより、道内各界にいまなお隠然たる勢力を張っている。本シリーズ第1回目は「堀人脈・赤レンガ編」をお届けする。(文中敬称略)

権力移行と道庁エリート像の変遷

 戦後60年余。

 北海道最大の権力機構、赤レンガと通称される北海道庁は、この間6人の知事を戴いてきた。

 田中敏文、町村金五、堂垣内尚弘、横路孝弘、堀達也。そして現在の高橋はるみである。

〝人事は役人の命〟。トップが代われば人事の流れも変わる。自ずと時代時代の道庁エリート像も大きく変化してきた。以下、歴代知事と時代背景、人事の特徴を簡単に記しておこう。

■田中敏文

 1947年(昭和22年)、全道庁労組の田中敏文が初の民選知事に。

 庁内序列では中間管理職の田中がいきなり〝社長〟になったわけだ。 

 革新系知事の誕生で、知事室には労組や社会党の幹部がしょっちゅう出入りし、道政の手足をしばった。庁内人事でも〝田中流〟といえるほどのものはなかった。

 50年北海道開発庁発足。52年第1次北海道総合開発5カ年計画がスタート。

 道開発庁の発足は、開発予算を保守陣営が握り、革新道政にくさびを打つという政治的側面があった。

 ちなみに、田中道政は3期12年、59年(昭和34年)まで続いたが、堀達也が道に入ったのが、前年の58年のことだ。

■町村金五

 59年知事選で、自民党はエースの衆議院議員・町村金五(町村信孝の父)を擁立。対する社会党候補は、これまたエースの衆議院議員・横路節雄(横路孝弘の父)だった。

〝革新の砦〟に落下傘で降りた町村は、まず組合管理の人事を刷新。三枝三郎ら自分と同じ東大卒の内務官僚を副知事に据え、その後も輸入人事を続け、最終的には、①東大・中央官庁エリート、②北大・庁内エリート、③ノンキャリア、といった〝人事の3本柱〟を確立、人心を収攬(しゅうらん)。内務官僚あがりらしい見事な権力掌握ぶりをみせた。

「青函トンネル」と「苫小牧東部工業地帯開発」という2大国家プロジェクトにかけた町村は、3期12年〝町村天皇〟として君臨。

堂垣内人事で〝北大全盛時代〟

■堂垣内尚弘

 71年(昭和46年)、道開発庁事務次官だった堂垣内尚弘が知事に就任。3期12年を務める。

 北海道は72年の冬季オリンピック特需に沸き、田中角栄内閣による列島改造ブームも起きた。だが73年にはオイルショックが列島を直撃。目白のドンもやがてロッキードで失脚した。

 堂垣内は〝スポーツ知事〟と呼ばれたが、道開発庁出身らしく〝道路知事〟とも称された。

 陽性で庶民派の堂垣内は、樫原泰明、寺田一寿夫、三上顕一郎ら有能な側近を配し、番頭さんに〝おまかせ〟というスタイル。

 堂垣内時代は、三上顕一郎を頂点とする北大法文系「楡の会」を中心とした〝北大全盛時代〟だった。

 事務系の開発調整部長や商工部長、民生畑の部長は北大「楡の会」出身者が占めた。法文系だけでなく、技術系でも農務部、農業開発部の部長は北大農学部卒、林務部長は北大農学部林学科卒、水産部長は北大水産学部卒、土木部長と住宅都市部長は北大工学部卒といった調子だ。

 側近には名古屋大卒の樫原泰明や慶応大卒の新谷昌明らもいたし、ノンキャリの特別職もいないではなかったが、かつてなく北大勢が羽振りをきかした時代だったことは否定できない。

 当時は各部ごとに将来の幹部候補生を目に見える形で育て、競わせた。技術系では2代、3代後の部長が誰になるかが、おおよそ推測がついた。事務系でも副知事候補のライバルが絶えず2人いた。中川利若と松江昭夫、植村敏と北野眞一といったぐあいだ。

〝東大偏重〟が裏目に出た横路道政

■横路孝弘

 社会党(現・民主党)のプリンス・横路孝弘が知事になったのは83年(昭和58年)。24年ぶりの革新道政誕生だった。

 北海道経済の自立をめざした横路は〝一村一品〟運動を推進。全道の市町村に名物づくりの機運が盛り上がった。だが一村一品もかけ声倒れに終わったし、90億円もの赤字を出した食の祭典や、戦略プロジェクト・長計汚職で、横路道政には汚点が残った。

 ただ時代はバブル期とあって横路は上げ潮経済に支えられた。 

 保守道政を打破、赤レンガの主となった横路は、「報復人事はしない」として中川利若、新谷昌明、我孫子健一など、堂垣内時代のエリートを副知事に起用。〝静かなる船出〟をした。

 その後、〝横路カラー〟を出すため能力主義型人事をやり〝東大偏重人事〟を行っていった。まず八幡匠、中橋勇一という東大卒の課長、課長補佐を重用。

 部長の頭越しに課長、係長の意見を聞くことで、若手にやる気が生まれたのも事実だ。だが若手のはね上がり、暴走を止められず食祭の失敗や戦プロ汚職を引き起こしてしまった。

 その後も農水省から荒井聰(東大農卒)をスカウト、知事室長に据えたり、さらに自治省から鈴木正明(東大法卒)を筆頭副知事に迎えた。筆頭副知事、総務部長、財政部長という行財政の中枢に自治官僚を配置、知事室長まで東大で固めたことから、横路の〝東大偏重人事〟に批判も当然出た。

 さて、横路の初代秘書課長を務めたのは高野泰造だったが、1期目の後半の秘書課長に抜てきされたのが堀達也だった。

「林務一家」で頭角現した大阪時代

 堀は道庁ではエリートでもなんでもなかった。

 北大農学部林学科を出て道の林務部に入ったが、そもそもは地方採用で、振り出しは上渚滑林業指導事務所の林業改良指導員。

 その後も旭川林務署、美深林務署など地方回りが主だった。

 その堀が林務部で頭角を現したのは大阪時代だった。 堂垣内時代、オイルショック直後の74年(昭和49年)、38歳のときに堀は道の大阪事務所主査になった。

 大阪は全国最大の木材集積地。ここで北海道の木材、銘木を売るのが仕事だったが、堀は大いに汗をかき、人のつながりを広げ、大変な実績を上げた。

 その実績と能力を買われ、以後、道有林管理室業務管理課長補佐、林産課長と出世街道を走り出す。

 口べたでシャイな堀だが、仕事では大胆、強気な面をしばしば見せる。

 林産試験場の合理化問題でも組合とガンガンやりあって、組合から一目置かれたこともあった。

 当時の林務の主流は、林務一家のドン・中野正彦(林務部長、道住宅供給公社理事長)に連なる千広俊幸(林務部長、林業会館館長)のラインだった。

 堀は千広に非常に目をかけられ、中野―千広―堀ラインとして、将来の林務部長候補の1人と目されるようになっていったという。

 そんな関係から千広は、知事選のとき林務部関係をまとめる中核となった。

 ちなみに、林産課長時代の堀の下にいたのが、堀知事の最後の知事室長となった馬籠久夫。また堀知事の知事室長を務めた石子彭培も林務部治山課出身の林務一家。堀の資金団体の事務局長を務めた山本信夫(根室支庁長)も林務一家だ。

 堀と同じころ林務部で活躍した仲間には沢田豊(林務部長)、武石哲男(後志支庁長)らがいる。

秘書課長抜てきが人生の大転機に 

 横路道政1期目の後半95年(昭和60年)、堀は知事室秘書課長に抜てきされる。堀の叔父の堀重平が社会党の道議だったことから、社会党道議の原清重、保格博夫らが横路に進言したといわれる。

 ここで横路の絶大な信頼を得た堀は、87年生活環境部次長、88年土木部次長、89年知事室長、91年公営企業管理者を経て93年に副知事になった。トントン拍子の出世物語。

「ソフトムードで淡々とみせかけながら非常に読みの深い男。役人らしからぬキレ味、政治センスの持ち主。人脈もいたって広い」と評された堀。

 正攻法から裏わざまでツボを心得、知事に対してもはっきりものを言うが、何事も知事のためになるかならないかで動いた堀は、庁内くまなくネットを張り人事を含め実権を握った。

〝政務担当〟として裏わざ、荒わざをこなしただけに、敵もまた少なくはなかった。「知事の懐刀といっても血ノリのついた懐刀だ」との評もあった。

 横路は91年に堀を副知事にしようとしたが、知事室長として道庁マシーンを動かした堀に対して、恨み骨髄の自民党が激しく抵抗。 堀に対する庁内のねたみもあり、〝脂抜き〟する意味で公営企業管理者として回り道させている。

 95年4月、堀は当時の社会・公明・民社・新生・連合の〝非自民5団体〟からの推薦を受けて知事選に出馬。自民党が推す伊東秀子との事実上の一騎打ちとなった。

 伊東を担ぎ出した自民党道連会長、豪腕で鳴る佐藤孝行は、堀の応援に回った自民党道議の橋浪蔵を除名し、道議選の公認を剥奪したばかりか、対立候補をぶつけるといった強硬なみせしめ策をとった。

 亀井静香、白川勝彦らも伊東の応援に入り、選挙戦は過熱の一途をたどる。

〝白馬の王子〟の側近として泥かぶり役に徹してきた堀が、時にはきわどい橋を渡っただろうことは容易に想像がつく。

 当時はまだ裏金・談合が横行していた時代でもあった。堀に関するスキャンダラスな怪文書も出て、かつてない泥仕合となった。

負の遺産処理に追われた2期8年 

 天には不測の風雲があり、人には不意にやってくる禍福がある。

 頂点に上り詰め得意の絶頂にあった堀を、就任わずか半年後、〝官官接待〟が直撃。一連の〝道庁不正経理・裏金問題〟が追い打ちをかけた。

 道庁は激震。堀は来る日も来る日も針のムシロ。

 裏金問題がようやく下火になったと思ったら、今度は拓銀破綻に端を発した深刻な経済危機が北海道を襲った。2期目に入ってからも農業土木談合で、道に家宅捜査が入り、またもや道庁は大揺れに揺れた。

〝官官・裏金問題〟と〝公共事業をめぐる口利き・談合問題〟は町村、堂垣内、横路時代を通じて、ずっと〝古い道庁〟が寄りかかってきた2大因習だ。

 堀は、終始こうした負の遺産の処理に追われた。

 全国的にも非常に先駆的な発想として注目された「時のアセスメント」を打ちだしたり、道庁の構造改革に積極的に取り組んだ堀だったが、泊原発3号機容認で、堀を知事に担ぎ出した民主・連合からソッポを向かれ、思うように支持率も上がらなかった。

 3選に意欲を燃やした堀だったが、2選目に相乗りしてきた自民党も冷ややかで、最後は町村信孝に引導を渡される形で、堀は泣く泣く3選を断念した。

「町村に対する堀の恨みは終生消えることはないだろう」といわれている。

〝ノンキャリ重用〟と〝側近政治〟

 堀の人事の特徴は〝ノンキャリ重用〟と〝側近政治〟といってよいだろう。

 堀は「調整力がないのは無能だ」と考えていたようで、切った張ったができる〝仕事師〟を好み、どちらかというと、かつての北大エリートに代表されるいわゆる〝絹のハンカチ〟には点数はからかった。

 堀の右腕だった丸山は中央大夜間のノンキャリ。堀はさらに小原一美、鎌田昌市、西川昌利、太田敏夫ら、実力派のノンキャリを次々と重要ポストに起用した。

 技術畑の人間を事務系の重要ポストで起用したりもした。水産畑の眞田俊一を商工観光部長、副知事として使い、林務畑の石子彭培を知事室長、公営企業管理者に使ったのが好例。

 苦学生だった堀は、道の試験に落ち、その年の10月に中途採用で道庁入りしている。林務部という地味な部署で、エリートでもなんでもなかった堀。技術畑から事務畑に転じ、頭角を現してきた堀。

 ノンキャリを重用し、技術畑の人間を事務系の重要ポストに就けた人事に、堀自身の役人人生が重なる。

 またホクレン専務の西村博司、コンサルタントの佐々木亮子と、民間副知事、女性副知事をつくったのも堀だった。

〝達達コンビ〟の側近政治に怨嗟

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 堀の人脈は多岐にわたっており、庁内人脈も単純には整理できないが、直系という意味では①堀―丸山ライン、②〝林務一家〟ライン、③堀系中間派――の3つに分けていいだろう。(図参照)

 まず①の堀―丸山ラインから。

 堀が大抜てきを受けて秘書課長になったとき、広報課長だったのが丸山達男だった。丸山は堀の後の秘書課長でもある。

 頭の回転が早く、口八丁手八丁。決断力、政治センスも抜群の丸山は、堀とともに横路側近として大いに汗をかいた。

 丸山はそのまま〝堀一家〟の中心人物となり、堀の側近中の側近、懐刀といわれるようになった。

 名前から〝達達コンビ〟とも称された。2人の関係は親分子分というより、兄弟分というところであろう。

 丸山は、堀知事のもとで総務部長、渡島支庁長を務め、副知事となった。

 総務部長から渡島支庁長に〝格下げ〟になった背景には道庁を揺るがした裏金・不正経理騒動の〝けじめ〟をつけるという意味もあった。同時に眞田俊一も商工観光部長から上川支庁長に〝格下げ〟された。

 丸山の後任の総務部長は岡眞則。岡は大学でも道庁でも丸山の先輩だった。副知事最短距離の総務部長になったことから、巷間、岡に次期副知事の声も出た。

 岡にも後輩の丸山に対する対抗心が少なからずあった。だが、堀はやはり腹心の丸山を副知事に起用。同時に支庁長に格下げされた眞田も副知事になった。

 副知事レースに敗れた岡は出納長となり、その後、北海道空港社長に。

 自治体経営では、権限を分散するために、人事と財政は別々に担当させるのが常道となっている。

 ところが堀は、副知事の丸山に人事・財政を握らせたばかりか、発注部署もまかせた。赤レンガの全権が丸山に集中したわけだ。

 丸山をあまりにも重く用いた堀の〝側近政治〟に批判、怨嗟が鬱積したことは言をまたない。

「あの2人の関係には余人のうかがい知れないものがある」ともいわれた。

 人の心は一瞬にして変わることがある。濃密な〝達達コンビ〟にも冷ややかな空気が流れた瞬間があった。 堀が、退任する丸山を北海道空港社長にしようとして、失敗したときだ。丸山は堀の弱腰に失望して相当荒れたと伝えられる。

 翌年、堀は、道信用保証協会の理事長だった鈴木弘泰(元副知事)を、任期途中で退任させ、その後に丸山を押し込んだ。

 巷間、「鈴木は『無理な人事をやると3選はないですよ。丸山さんを取るのか、3選を取るのか』と言ったら、堀は『丸山を取る』と言ったらしい」というまことしやかな話も流れた。

丸山直系の相馬、小原、太田…

 丸山の直系には旧人事系では、相馬秋夫(教育長)のほか、ノンキャリの杉本堅治(十勝支庁長)、金野豊(監査委員会事務局長)らがいる。

 また旧財政系の小原一美(出納長)も丸山直系だった。丸山と小原は同じ町(歌志内)で育ち、高校こそ違ったが(丸山は砂川北高、小原は滝川工業)毎日同じ列車で通学した仲。

 ノンキャリの太田敏夫(網走支庁長)も丸山直系として有名。昨年、堀夫人が東京で急逝したときも、丸山が葬儀委員長、太田が事務局長として仕切った。

 河村耕作(出納長)、吉田洋一(教育長)、山本邦彦(現・副知事)らも、堀―丸山ラインと称されるが、丸山直系の相馬、小原、太田らとは違って、親分子分というほどの濃密な関係ではない。

丸山、眞田、石子の〝敵の敵は味方〟

 堀の庁内人脈②の〝林務一家〟についてはすでに述べたが、堀直系の石子彭培は、丸山とは微妙な関係。

 エア・ドゥがピンチに陥ったとき、道が全面支援するために、堀の腹心の丸山副知事を社長に出すべきだという声が出た。だが丸山は固辞。

 弱り抜いた堀は、石子に頭を下げてエア・ドゥに行ってもらった。結局エア・ドゥは破綻。石子は深く傷ついた。石子には、逃げた丸山の犠牲になったという思いが残った。

 丸山と眞田は犬猿の関係。〝敵の敵は味方〟で、眞田と石子の関係はいい。

 眞田は水産畑だが、水産畑では中谷久司(出納局長)、北勝利(釧路支庁長)らが堀系。

 堀の初代知事室長は山口博司(副知事)で2代目が石子だ。以下、福田昭夫、西川昌利(公営企業管理者)、菅原久広(土木部長)と続き、最後の知事室長が馬籠久夫だった。

 ちなみに山口は堀の時に副知事になっているが、堀との関係は無色派といっていい。山口は経済部系で、嵐田昇、近藤鉄雄、青木次郎らがこの流れ。 

 堀の知事室長だった福田昭夫は農業土木談合事件で失脚。関係は切れている。

 福田、西川、菅原らは③の堀系中間派と位置づけていいだろう。堀の秘書課長を務めた山本文夫(医大事務局長)は自ら「俺は堀直系」と公言していたが、スキャンダルで失脚した。

 元教育長の鎌田昌市も堀系中間派。この堀系中間派の面々はどちらかというとアンチ丸山色が強かった。

 アンチ丸山といえば磯田憲一もそうだった。

 磯田は堀が秘書課長のときの秘書係長。堀は磯田のセンスを買い側近として目をかけ、のちに副知事に起用している。丸山はいわば守旧・実権派。対する「時のアセス」の名付け親の磯田は道庁改革派と称された。

 だが、堀が3選出馬を断念した後、磯田は副知事を辞めて知事選に出馬。堀の3選断念を見越していたような磯田の行動に堀は不信感を募らせ、亀裂が入った。

 堀の庁内人脈を語る上で見逃せないのは、堀の盟友、元道議・橋浪蔵の存在だ。

 橋は、堀知事の〝道庁応援団〟のすそ野を広げるために、道庁OBや堀側近などでゴルフ・親睦のブリッジ会をつくった。現在も20人ほどで親睦を深めている。丸山、石子、相馬、菅原らをはじめ前教育長・吉田洋一、現副知事・山本邦彦もメンバーだ。

 橋と堀の関係については、あらためて次号、堀人脈「政界、経済界、労働界編」で触れたい。

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