【無料公開・本誌2009年4月号掲載】深酒話から家族、人脈まで…〝もうろう会見〟で失脚、中川昭一〝55年の行跡〟
大臣辞任後、初めて地元入りし後援会と初会合。終了後、会場を後にする中川昭一氏(左)
農水大臣、経産大臣、自民党政調会長、財務・金融担当大臣などを歴任した中川昭一氏が2009年10月3日の午後11時ごろ(推定)死亡した。直接の死因は心筋梗塞とされる。中川氏の政治家人生は、まさに〝順風満帆〟〝トントン拍子〟だった。当選8回。議員在職26年。〝北海のヒグマ〟と呼ばれた父・一郎氏の自殺という非常事態を受け、興銀マンから急きょ政界に転身した。「父が果たせなかった総理の夢を」と期待する声もあった。ところが、イタリアで開かれた財務相・中央銀行総裁会議(G7)終了後のもうろう会見で世界中に醜態をさらし、政治家人生は一変。その後、再起を目指していたが、返らぬ人となった。中川氏が急逝する前、本誌09年4月号で特集・中川昭一〝不徳のその後〟を組んだ。その特集内から「深酒話から家族、人脈まで…〝もうろう会見〟で失脚、中川昭一〝55年の行跡〟」を財さつJPでUPする(肩書きなどは当時掲載のまま)。
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自民党内で出世街道をひた走っていた中川昭一氏が、前代未聞の〝もうろう会見〟で失脚した。〝北海のヒグマ〟こと父・一郎氏の意志を継ぎ政界デビュー。北海道初の総理大臣との期待も高かった。深酒、家族、人脈まで、〝中川昭一の55年〟を振り返る。
〝北海のヒグマ〟は情と涙の男
「2009年は中川家が富良野から広尾に移住してちょうど100年になる。兄(一郎)が果たせ得なかった夢。十勝から総理大臣を誕生させていただきたい。あと一歩、もう一歩のところまで来た。ぜひ昭一に力を貸してほしい」
1月24日、音更町で開かれた中川昭一の「新年の集い」。おじで参院議員の中川義雄氏は、詰めかけた3000人を前に訴えた。
あれからわずか3週間後――昭一氏は〝総理〟という頂きに手が届くところま登りつめながら、自ら〝もうろう〟となって崖下に転げ落ちた。
昭一氏の55年をひもとく上で「1983年1月9日」に触れるわけにはいかない。父・一郎氏が札幌市内のホテルで自殺を遂げた日だ。
〝北海のヒグマ〟の異名をとった一郎氏は、道開発庁長官・大野伴睦氏の秘書官を経て、1963年の衆院選に旧・道5区から出馬し、初当選。福田赳夫内閣で農水大臣、鈴木善幸内閣では科学技術庁長官を務めた。当選7回。
自民党内ではタカ派として知られ、73年に盟友だった渡辺美智雄氏、石原慎太郎氏、中尾栄一氏らと政策集団「青嵐会」を旗揚げ。若手ニューリーダーとして、その言動が政局を左右させるほどの実力者となった。一郎氏は風貌に似合わず正義感と瞬発力を持った大衆政治家として親しまれた。〝義理人情〟〝情と涙の男〟だった。
一郎氏の元支持者はこんなエピソードを披露する。
「オヤジ(一郎)の人なつっこい笑顔がたまらなく好きだった。愛嬌があって決して偉ぶらない。周囲に対する気配り、心配りは天下一品だったよ。お酒は大好きだったが、飲み始めたらいつも陽気に踊りだす。支持者に『ネクタイやるぞ~』『ベルトやるぞ~』って渡すんだ。オヤジが酔っぱらって眠りこけた後、秘書だった鈴木宗男が〝回収〟してたよ」
82年11月、一郎氏は一世一代の決断をする。自民党総裁選に中曽根康弘氏、川本敏夫氏、安倍晋太郎氏とともに出馬。〝密室・金権政治〟打破を訴えて名乗りを上げた。だが、〝ヤミ将軍〟田中角栄氏の支持を受けた中曽根氏の勝利は明らかだった。ふたを開けてみると、一郎氏の得票数は4人中最下位、惨敗に終わった。
「総裁戦後、オヤジはこれまでと一変して弱気になり、周囲に愚痴をこぼすようになった。道内での票が想像以上に伸びなかった。その結果がよほどショックだったのだろう」と、当時を知る関係者は振り返る。
一郎氏が自ら命を絶ったのは、この総裁選から約1カ月半後のことだった。
大臣ポストは同期の町村、鈴木が先
亡き一郎氏の跡目はどうするのか。当初、次男・英二氏の名前もあがったが、一郎夫人・貞子氏の強い思いもあり、長男・昭一氏が遺志を継ぐことになった。麻布中学、高校、東京大学法学部を経て、昭一氏は当時、日本興業銀行に勤務していた。父の急死で、何の予備知識や経験もないまま選挙に放り出された格好。さらに、2世としてすんなり〝ジバン・カンバン・カバン〟を引き継いだわけではなかった。一郎氏の秘書だった鈴木宗男氏も出馬表明したため、後援会組織は割れた。マスコミは、身内同士による〝骨肉の争い〟とまで書き立てた。
昭一氏は83年12月の総選挙でトップ当選。30歳にして赤じゅうたんを踏む。父よりも8年早い政界デビューだった。
89年6月、宇野内閣で農水政務次官に就任する。その後、党の青年局長や副幹事長を経験し、97年に道内トップの道連会長になった。大臣のイスが狙える5期目に突入していた。
そんな中、98年の第2次橋本内閣で町村信孝氏が文部大臣、鈴木氏も道・沖縄開発庁長官として初入閣を果たした。同期の2人に先を越されたが、昭一氏は辛抱強く待った。道連会長として恵庭市長選、おひざ元の帯広市長選、義雄氏が立候補した参院選を陣頭指揮。自民党候補を次々と当選させ株を上げた。
98年7月、小渕内閣が発足。初当選から15年。とうとうつかんだ大臣のイスは、父と同じ農水大臣だった。地元・十勝は、一郎氏の姿と重ね合わせて大いに沸いたという。ここから、出世レースで同期から遅れをとっていた昭一氏の巻き返しが始まった。
小泉が「お前しかいないだろ!」
2001年4月に小泉内閣が誕生する。昭一氏が所属する江藤・亀井派はアンチ小泉、抵抗勢力の姿勢を示した。しかし、昭一氏は03年9月の第2次小泉改造内閣で経産相、第3次では農水相と、3年間ずっと大臣のイスに座り続けた。なぜ小泉氏は昭一氏を籠愛したのか。
地元自民党幹部は「小泉さんは、農政を中心として幅広く知識を持つ中川さんを、政策通として評価していた。中川さんはタカ派で、発言が物議を醸すこともあったが、周りから何も言われてもぶれない一面も気に入ったようだ。農水大臣の拝命を受け首相関係に行った際、小泉さんからは、『(大臣は)お前しかいないだろ』の一言だけだったという。これ以上の褒め言葉はない」と打ち明ける。
その後、安倍晋三内閣で党3役の政調会長の座を射止める。晋三氏と昭一氏は盟友として知られる。歴史教科書問題や拉致問題解決にも一緒に取り組み、憲法改正などの国家観もピッタリと合う。
晋三氏の父・晋太郎氏と一郎氏も、互いに「アベちゃん」「イッちゃん」と呼び合った仲。親子二代で深いつながりというわけだ。
08年1月に入ると、自ら代表となり、保守の再結集を目指す「中川勉強会」を設立。「総裁を意識した行動」との臆測も流れた。派閥横断で約60人が出席。昭一氏が兄貴分として慕う一郎氏の元秘書・平沼赳夫氏が最高顧問に就いた。最近は、食料備蓄や水問題にも熱心に取り組んでいた。
福田康夫内閣が退陣し、麻生太郎政権が誕生。未曽有の世界同時不況に対応する財政・金融担当相に就任したが、09年2月、G7後の〝醜態会見〟の責任をとり辞任した。
べらんめえ口調で砂川帯広市長に…
これだけの大物となれば、道内の経済人や自治体関係者がこぞって陳情に訪れる。だが、評判は芳しくなかったという。
ある十勝管内の自治体議員は「いつ陳情に行っても、一生懸命話を聞いてくれる感じではない。内容を説明すると、『そんなことぐらいで頼みに来るな』『議会でやればいいだろう』などと言われることもある。その後、義雄さんのところに行き、『あんな態度じゃ困る。どうにかしてほしい』と文句を聞いてもらった」と話す。
華麗なキャリアを積み重ねる一方、常に昭一氏につきまとっていたのが〝深酒〟の問題だ。
G7語の〝もうろう会見〟の原因も、真っ先に飲酒が疑われたほど。帰国後、当の本人は「風邪薬を大量に飲み過ぎた」と釈明。会見前の飲酒は「たしなむ程度で『ごっくん』はしていない」と否定した。その後、テレビが週刊誌などで過去の酒にまつわるエピソードが盛んに報じられているのは周知の通りだ。
中川後援会幹部は「承知さんはとにかくワインと日本酒が大好き。決して酒が強いほうではないのに、とにかく量を多く飲む。その点は一郎さんと似ているが、悪酔いしてしまう。酔っぱらったら人の言うことを聞かなくなるんだ。前回の楚選挙後、後援会首脳から禁酒令が出ていた。宴席の場でほとんど飲むことはなかったが…」と困惑する。
とはいえ、これまで地元でも醜態と思われる場面が何度か目撃されている。
05年7月3日、本別町で後援会主催のパーティーが開かれた。昭一氏は支持者約2000人を前に挨拶に立ったが、「完全にろれつが回らず、たったの数分間で終了した。会場にやってきた瞬間、ふらふら歩いていたので酒が入っていると感じた。パーティー後、有塚利宣連合後援会長や出席した首長に『もう酒は飲むな』と一喝された」(地元関係者)
最近では、昨年11月29日、高規格道路「帯広・広尾自動車道」幸福IC―中札内ICの開通式が行われた。
ある出席者の話。
「幸福ICでの開通式後、中札内小学校の体育館で祝賀会が開かれた。この日の中川さんはいつになくご機嫌だった。帯広はちょうど12月に『水のサミット』(G8水と衛生に関する専門家会合)の開催を控えていた。その席上、砂川市長に『砂川~、水のサミットをちゃんと成功させれよ~』と、酔っぱらったような、べらんめえ口調で話しかける場面があった。砂川市長は『わかりました』と苦笑いを浮かべながら対応していたよ」
昭一氏は財務相就任後も多忙なスケジュールの合間を縫って、2週に1回は必ず地元に入った。秘書が出席するような小さなイベントや会合にも顔を出し、街頭演説も始めた。民主・石川知裕氏の猛追を受け、周囲が驚くほどの危機感を抱いているようだ。
「最近、薬の種類が増えた。もともと腸が弱いので整腸剤を服用していたが、ビタミンなどの栄養剤、精神安定剤も飲んでいた。移動中の車内で、まとめて口に入れる。昭一さんは水を使わなくても錠剤を飲める人。それこそ〝ごっくん〟だよ。相当疲れているように見えた」と昭一氏に近い関係者は話す。
そんな昭一氏を内助外助の両面で支えてきたのが、興銀時代に結婚した妻・郁子氏だ。1男1女にも恵まれた。大臣辞任前夜、昭一氏が家に帰宅した際、「ガンバレー!」「日本一!」「大丈夫!」と出迎える場面が、大きな話題となった。
政界きっての美人妻といわれ、地元での人気は抜群。
「郁子さんあっての中川。支持者向けの会合を予定すれば、本人ではなく奥さんを連れて来てと頼まれる」(帯広市議)という。
ただ、郁子氏も夫の不祥事やマスコミに追いかけられ、かなり心労が重なっていたようだ。2月28日、騒動後初のお国入りとなった地元後援会総会には郁子氏も出席。昭一氏のあいさつ中、疲れからかよろめき、隣の砂川氏に支えられるひと幕もあったという。
クールで生真面目すぎる政治家
一郎氏と親しかった道内選出元代議士はこう叱咤激励する。
「政治家はたびたび、酒、女、カネなどの問題で失敗を犯す。しかし、反省して一生懸命やれば復活できるのも、これまた政治の世界なんだ。昭一氏はどんな場面でもクールで、生真面目すぎる。よく言えばスマートな政治家だが、これまでは誰も慕ってこない。この10年間、常に要職に就いていた。日の当たるところばかり歩かないで、たまに外れることも必要なんだ。政治の世界はどうしてもねたみがつきもので、そういう時でなければ真の名前ができない。当分、重要ポストに就くことはないだろう。逆に仲間づくりに励むための時間が与えられたと、プラスに考えて頑張ればいい」
また、一郎氏時代からの有力支持者も「年齢を重ねるにつれてオヤジに顔が似てきた。いつもムスッとしてるけど、実は結構愛嬌のある顔なんだ。愛想笑いでもいいからニッコリすれば、親しみを持ってもらえるようになる。これまで、『世話になったオヤジの息子だから』と言って、甘やかしてきた。いま思えば、本人のためになっていなかったかもしれない」と語っている。
一郎氏は総裁選で燃え尽きた。そんな父の思いを受け継いで「北海道初の総理大臣」を目指した昭一氏。自らの不徳で、その夢は遠のいてしまったと言わざるを得ない。


