【無料公開・本誌2009年11月号増刊】中川昭一、死の真相を追う、政治に殺された親子②落選後34日間を検証、中川昭一はなぜ死んだのか!

©財界さっぽろ

祭壇に飾られた中川昭一氏の遺影。天皇陛下からの香典に当たる「祭粢(さいし)料」も供えられた

 農水大臣、経産大臣、自民党政調会長、財務・金融担当大臣などを歴任した中川昭一氏が2009年10月3日の午後11時ごろ(推定)死亡した。直接の死因は心筋梗塞とされる。中川氏の政治家人生は、まさに〝順風満帆〟〝トントン拍子〟だった。当選8回。議員在職26年。〝北海のヒグマ〟と呼ばれた父・一郎氏の自殺という非常事態を受け、興銀マンから急きょ政界に転身した。「父が果たせなかった総理の夢を」と期待する声もあった。ところが、イタリアで開かれた財務相・中央銀行総裁会議(G7)終了後のもうろう会見で世界中に醜態をさらし、政治家人生は一変。その後、再起を目指していたが、返らぬ人となった。本誌では09年11月1日、財界さっぽろ11月号増刊として「中川昭一、死の真相を追う、政治に殺された親子」を出版。今回、財さつJPでいくつかの掲載記事をUPする(肩書きなどは当時掲載のまま)。

           ◇                                  ◇ 

 中川昭一急逝の第一報を聞き、「自殺」という言葉が頭をよぎった人は少なくなかった。だが、中川氏は不器用ながらも、政界復帰を目指し動き始めていた。なぜ、志半ばで無念の死を遂げたのか。落選後34日間の足取りを改めて検証した。

後援会幹事長の高橋猛文が涙のおわび

「編(あみ)ちゃん、今日は本当に楽しかった。ありがとう。もし優勝したら自宅に景品を届けてね」

 9月27日、帯広市議・編田照茂氏の後援会主催のパークゴルフ大会に参加した中川昭一氏は、帰り際、編田氏に冗談交じりにそう語りかけた。

 この頃の中川はいつになく上機嫌だった。久しぶりのパークゴルフを満喫。プレー後、懇親会まで参加し、出席者たちとにこやかな表情で握手を交わす場面も見られた。

 地元紙・十勝毎日新聞(以下、勝毎)は9月30日付の紙面で、この模様を報じた。編田氏は後日、羽田行きの機内で偶然一緒になった中川夫人・郁子氏から感謝の言葉を述べられている。

「(勝毎に)主人のいい笑顔の写真が載っていました。招待していただき、ありがとうございました」と。

 父・一郎氏から地盤を引き継いで26年。地元十勝・帯広で過ごす〝最後の日〟を心から楽しんでいる様子だった。

 落選後(09年8月、衆院選・道11区から出馬)の敗戦の弁で、「まだ、やらなくてはならないことがある」と述べるなど、中川氏は政界復帰に意欲を見せていた。

 中川氏は投票日翌日から後援会関係者を中心に〝おわび行脚〟を始めた。9度目の選挙で初の落選。頭を〝下げられる人〟から〝下げる人〟へ。人生56年を振り返る中で、これほど「申し訳ございません」というフレーズを発した日々はなかったかもしれない。

 十勝管内の首長は「役場には、なんの連絡もなく、突然一人でやって来た。秘書を車で待たせて10分くらい話しました。いろいろ迷惑をかけたというお詫びだった。中川さんの『さあ、頑張っていこう』という雰囲気は伝わってきた」と振り返る。

 落選から1週間後の9月6日、選挙後初となる中川氏の十勝連合後援会の会合が開かれた。

 席上、中川氏の盟友でもある幹事長の高橋猛文氏が「とんでもないことをしでかしてしまった。なんとおわびしていいのかわからない。すべて私の責任、不徳の致すところ」と謝罪し、涙を流す場面があったという。

 そんな男泣きの高橋氏を見た古参幹部が切り出した。

「確かに代議士(中川氏)は地元にとって大切な存在だと思う。ただ、なぜこのような結果になってしまったのか。本人の言動に問題があったのではないか」

 この発言で静まりかえっていた場の空気が一変した。複数の出席者から、これまでのうっせきを晴らすかのように〝中川批判〟が飛び出し始めた。

 当の中川氏は東京事務所の整理、所属した伊吹派の会合に出席するため欠席。不信感に拍車をかけた。

 中川氏は翌日の自民党11区支部の執行部会議にも姿を見せなかった。前日同様、「本人の態度が変わらなければ次は応援できない」など厳しい意見が噴出した。

 身内から飛び出しら不平不満の数々。中川氏は〝王国〟の崩壊が予想以上に進んでいた事実を突きつけられていたのだ。

いいかげんなことをできない照れ屋な男

「昭一くんは苦しくなったらすぐに逃げ出そうとする。とにかくシャイで照れ屋な男。過去の選挙中は、『そんなことでどうするのか。一緒に行くから支持者に頭を下げよう』と叱咤激励し、ようやく重い腰を上げる。その時、子どものようにニコッと笑うんだ。決していいかげんなことをできない根っからの〝いいやつ〟だった」

 元中川後援会幹部は、目に涙を浮かべ思い返す。

 再起を表明すべく2つの会合は所用で欠席したが、今回の中川氏は逃げなかった。少なくとも必死で現実と向き合おうとしていた。現に9月7日の週は、びっしり地元に張り付き選挙区を回る姿が目撃されている。

 9月9日、中川氏は足寄町の「両国食堂」で支持者と「お疲れさん会」を開いた。農協関係者など約20人ほどが参加した。中川氏は大好物の山菜そばをすすりながら、農作物の収穫の現状などを熱心に聞いていた。

「とても元気そうで終始、笑顔が絶えませんでした。まさかこんなことになるとは…」と店の女性従業員は驚きを隠さない。

 10日には〝お母さん〟と慕う紫竹昭葉氏(紫竹ガーデン代表)の元を訪ねている。お気に入りのスープカレーを食べ、「ゆっくりしていきたいんだけど、これから支持者を50軒回るんだ」と、笑顔で語っていた。

 11日は、陸上自衛隊帯広駐屯地で開かれた式典に出席。総選挙で敗れた民主党・石川知裕氏に「頑張ってください」と握手を求めるひと幕もあった。

 翌日は選挙応援のお礼のため、十勝を離れて釧路にまで足を運んでいる。13日に開かれた2回目の11区支部の執行部会議には中川氏も出席。冒頭、役員前で初めて謝罪した。

 17日は東京の日本橋三越本店の北海道物産展に顔を出している。「中川昭一が来た」と買い物客が集まり、写真攻めにあっていたという。高校・大学の同窓や親しい国会議員と会食するなど、地元だけでなく、東京でも精力的に活動していた。

農水省所管の公益法人会長就任の予定が…

その一方、中川氏の体調の〝変化〟を感じ取れる場面もあった。

 9月21日の夕方、中川氏は帯広市内の行きつけのそば屋を訪れた。地元に戻れば必ず足を運ぶほど、この店のそばが大好き。20年以上の付き合いがある店主との間で、次のようなやりとりがあった。

「私が『あと30年は頑張ってもらわないと困りますよ』と声をかけると、中川さんは何も言わず寂しそうに笑って席についたんです。少し疲れた様子で、いつもの笑顔とは違いました。これが中川さんとの最後の別れになりました」(そば店の店主)

 26日には東京ミッドタウンで開かれた「2009地球と恋する暮らし」というイベントで講演。総選挙前から決まっていたもので、議員時代にライフワークだった水資源問題について語った。

 講演が終わると急ぎ足で地元に戻り、27日午前中の冒頭のパークゴルフ大会に駆けつけた。その後、先のそば店で秘書ら4人で昼食を取っている。

 中川が注文したのは「冷やしたぬきそば」の大盛り。合わせて、「青南蛮の天ぷら」も頼んだ。ここまではいつも通りなのだが、中川氏は珍しく「そばの揚げ玉を少なくしてほしい」と要望する。そのため、揚げ玉だけを別の皿を取り分けた。

 そばは完食したものの、最後まで揚げ玉は食べないまま。根っからの辛い物好きで、いつも「おいしい、おいしい」と食べる青南蛮の天ぷらも、数本残してしまった。

 対応した店主の夫人は話す。

「中川さんの顔を見ると、目が赤く充血して疲れがたまっている感じでした。今振り返れば、脂ものを受けつけないほど、体調が悪かったのでしょうか」

 同日の羽田行き最終便で東京に帰着。その後、二度と自らの足で十勝の大地を踏みしめることはなかった。

 中川氏は議員時代、数々の要職を歴任。常に日の当たる場所を歩き続け、周りから頼られ、必要とされてきた。しかし、2月の〝もうろう会見〟で大臣を辞任。今回の落選で地位も、名誉も失った。選挙後、「もう自分は必要とされていない」という虚脱感、喪失感にさいなまれていたかもしれない。

「中川さんは人一倍プライドの高い人。社会的に自らの存在意義・価値を認めてもらうことが、何より生きる糧になっていた」とある支持者は心中を察する。

 実は、再起への第一歩として、10月から「日本家畜商協会」の会長就任が内定していた。中川氏は、09年4月から同協会の会長を務めていたが、落選により辞任。その時は無報酬で名誉職のような立場だったが、今回は協会内に事務所スペースを構え、常勤として報酬を得ながら勤務することになっていた。

 ところが、民主党政権にという壁が、中川氏の前に大きく立ちはだかった。

「民主党は一連の公務員制度改革により事実上、公益法人の役員人事凍結の方針を打ち出した。日本家畜商協会は農水省の外郭団体のため、9月下旬に中川さんの会長就任話も立ち消えになったようだ。その事実を知った中川さんは『まいったなー』と周囲に漏らし、相当落ち込んでいた」(地元関係者)

朝から下痢がひどくてトイレから出られない

中川氏は総選挙後、睡眠不足から睡眠薬を処方してもらっていた。合わせて、持病の腰痛を緩和させる鎮痛剤、整腸剤、精神安定剤なども服用していた。

「昭一くんは生真面目な性格だから『早く飲んで治さないといけない』と言って、すぐ薬に頼ってしまう。飲み過ぎが心配だったので、薬はすべて郁子さんが管理していた」と前出元後援会幹部は打ち明ける。

 10月2日午前、中川氏から高橋氏に1本の電話が入り、次のような内容だったという。

「風邪をひいて具合が悪い。朝から下痢がひどくて、トイレから出られない。どうしても地元に戻らないとダメかい」と。

 この日、中川氏は後援会総会と勝毎の創刊90周年の記念パーティーに出席する予定だった。結局、中川氏の帯広行きは急きょキャンセルとなり、代理で妻の郁子が2つの会合に参加した。郁子氏は後援会総会の中で、「主人はインフルエンザのような風邪にかかってしまい、体調を崩してしまった」と説明していた。

 翌3日は、東京有明コロシアムで開かれた「東レ・パン・パシフィック・テニス」の決勝戦を、友人の日本テニス協会役員と2人で観戦する予定だった。

「この役員と中川さんは家族ぐるみで付き合う仲。正午前、車で中川さんを迎えに自宅を訪れると、長女の眞理子さんが応対した。『父は具合が悪く朝からずっと寝ています。どうしましょうか』と話すので、『無理に起こさなくていいよ』と言って、本人に会わず自宅を立ち去った」(中川氏のテニス仲間)

 このように死の直前の数日間は、家から一歩も出られないほど、体がぼろぼろになっていた様子がうかがえる。

 中川は3日の午後11時ころ息を引き取り、4日午前8時過ぎ、自宅2階の寝室でうつぶせ状態で亡くなっているのを妻に発見された。薬と酒に頼り、なんとか維持してきた気力の糸がプツリと切れ、燃え尽きてしまった。

 10月16日現在、病理解剖の結果が出ないため死因は特定させていない。しかし、遺体からはアルコール成分が検出され、酒と睡眠薬を同時に飲んだことによる「循環器の異常」で死亡したとみられる。心臓周辺の血管がもろくなっており、極度の疲労、ストレスなどあらゆる要素が重なった突然死だった。

 中川氏の亡きがらと対面した国会議員は「すべての苦しみから解き放たれたような、安らかな表情で眠っていた」と話す。

 中川氏は落選直後の会見で「こういう感情は初めてで、うまく表現できない」と現在の心境を吐露していた。中川氏にとって人生で初めて〝挫折〟という言葉と向き合い続けた34日間だったかもしれない。

               ◇                               ◇

 その後、中川氏の葬儀は10月9日、東京都港区の麻布山善福寺で行われた。

©財界さっぽろ
祭壇を前に合掌をする中川郁子氏
©財界さっぽろ
葬儀に参列した安倍晋三元首相夫妻。右は福田康夫元首相
©財界さっぽろ
森喜朗氏(左)、小泉純一郎(右)ら、歴代首相をはじめ、各界の大物が弔問に訪れた

こちらもおすすめ

関連キーワード