【追悼】上田文雄さんが遺したもの─思い出を辿りながら─酒井雅広 記
札幌市長となっても自転車通勤を続け、関係者を困惑させた(後に警備の関係で断念)
追悼文は客観的に故人の足跡を記すべきである。しかし、ぼくは今回、それができない。上田文雄さんという偉大な先達を失った現実に向き合うのが辛いからだ。よって個人的な感情・思い出が入った文となることを許していただきたい。
果たされぬままの上田さんとの約束
雨が降りそうな空模様だった。天気予報も札幌市内は夕方から雨と報じていた。だが、ぼくは傘を持ちたくなかった。空が泣くなら濡れてしまいたかった。
友人や財界さっぽろの後輩記者たちとススキノの東急レイホテルのロビーで待ち合わせ、浄土真宗東本願寺札幌別院の斎場に向かった。途中、市電が電停「資生館小学校前」を過ぎた直後に南へ曲がる交差点の角にアパホテルがある。後輩がここで自民党総裁選に出馬した高市早苗氏のパブリックビューイングが行われると教えてくれた。「皮肉なもんだな」と思った。
南7条通を右折すると東本願寺のエリアだ。ぼくは高校時代に時々、授業をサボって鐘楼の下にできた巣穴を出入りする蟻の様子を何時間も見ていた。女王蟻と働き蟻、同じ巣の蟻として生まれながら、どういう因果で〝階級〟の区別がついたのか――そんなことを考えていた場所だ。
斎場に入ると祭壇には、上田文雄さんの写真が花に囲まれていた。一番見たくなかった光景だ。寺の孫のくせにぼくは葬式が苦手だ。葬儀は人の生と死の区切りをつける場だ。大切な縁のあった方の最後に会った姿がご遺体だというのが耐えられないのだ。しかも、浄土へ行かれた上田さんにご焼香しながら、ぼくには悔いが残ったままだった。
4月23日夜、上田さんの健康回復を祝って、友人たちが札幌パークホテル地下のカラオケルームに集まった。その日は、病状の検査結果を言い渡されることになっていたが、良好。医師に会合へ参加することを許可された上田さんは、元気だった。
「流動食しかダメだからスープだけにしようかな、お酒も薄~いやつを一杯。歌も声がもう出ないよ」と言っていたが、どうしてどうして声も大きく朗々と歌い、食もアルコールも進んだ。
この場でぼくは一つ仕事を仰せつかった。ある福祉施設の活動を取材・代筆し、一冊の本にしてほしいというものだった。原稿料はロハ。もちろん、お引き受けした。詳細は後ほど話し合うことになった。
6月5日、上田さんからメールが来た。
「自主出版のご相談の件、もう一件お願いしたい方が現れ相談したいとのこと(中略)、健筆を期待したいのですが、一度当事者と面談していただけませんか」
ぼくは「16日以降の対応で日程を組んでいただければ」と返信し、上田さんからもOKの返事をいただいた。
ところが、16日を過ぎても連絡が来ない。なによりも楽しみにしていた7月9日のPMFのレセプションにも上田さんは姿をあらわさなかった。そして9月18日、すい臓ガンのため逝去されたという報が飛び込んできた。
「君の一番好きな人を 市長候補に選んだよ」
上田さんとの出会いは、1984年。ぼくは入社1年目の駆け出し雑誌記者。上田さんは護憲・人権派の弁護士として有名人だった。きっかけは音楽だった。5月3日の憲法記念日にA面「第九歌謡曲」(歌詞は憲法9条の条文)、B面「道」というレコードを出したことを取材した。
「言語が言葉としての機能を果たし得なくなった社会が現代。そこで相手の気持ちの中に言葉が入っていけたらなと思ったんです。その一つの手段として歌というわけです」と語っていた。
ちなみに「道」は作詞作曲が横路勝手連の主要メンバーの1人だったシンガーソングライターの稻村一志さん。歌詞は次の通りだ。
「信じてください 投げ出さずに ぼくはどんな嘆きのときも 何ひとつあきらめなかった」
「導いてください 正義のもとへ ひとは誰もまよえる子羊 誰かを信じ光を見つける 示してくださいその道を」
その後は、衆参選挙への出馬説に関するコメントをとる程度で、記者と取材対象者という関係の域を出なかった。
ところが、2003年4月の札幌市長選の民主党系候補者の取材合戦のさなか、突然、上田さんが登場する。
市長選の責任者は、民主党札幌代表の西本美嗣さん(西区選出道議)。
ぼくは折につけ「ニシさん、誰に当たっているの?教えてよ」と迫っていた。しかし、いくら親しい間柄でも西本さんのガードは堅く「決まったら君に一番最初に教えるから、いまはダメ」とにべもない。
だが、締め切り中のある夜、電話が来た。
「市長候補、決まったよ」「ホントですか。ありがとうございます。誰ですか」
「〝君が一番好きな人〟だよ」
「えっ、誰?」
「約束は果たしたよ。一番先に教えたからね。紙(新聞)も電波(テレビ)もほかには誰にも言っていないから」
――そんな会話を交わしただけで、電話が切れた。そこからが大変である。「ぼくの一番好きな人?誰だ?」。自問自答を始めた。あの人?もしかしたら、あの彼女?いや、こっちの議員かも?散々考えた揚げ句、やっと行きついたのが上田さんだった。ところが、時間がないのに最新の写真がない。やっと引っ張り出したのが、あのレコードのジャケット写真だった。
市長候補選びで上田さんへ最初に接触したのは、西区選出市議の大嶋薫さん(1月31日)。そして頃合いを見て西本さんが落としにかかった。
本人は冗談で「魔が差した」と言ったが、当時、上田さんはライフワークだった医療事故問題やNPO法人の法整備に一定の決着をつけ、仕事的に「ちょうど区切りだった」。
そこを老練な政治家の西本さんが巧につき、琴似のホテルヤマチの一室でついに上田さんは「ぼくが断れば、西本さん、困るんでしょう」とポツリと言ってしまった。
そこからはトントン拍子で「市民参加の札幌市政をつくる会」が2月6日、正式に出馬要請を行い、上田さんは抱えている裁判のめどがついた時点で出馬表明をした。
ぼくは某労組の事務所で単独インタビューをしたのだが、現れた上田さんはリュックを背負い、電動ママチャリに乗っていた。
ところで、03年4月の札幌市長選は前代未聞の結果となる。7人の候補者が乱立し、誰も法定得票(有効得票の25%)を上回ることができず、6月に再選挙となった。上田さんはリンゴ箱の上に立ち、辻立ちを繰り返し、4人による戦いを得票率41・67%で制した。
市長になってからは猛烈な勢いで札幌市政を検証した。高血圧と不眠症を心配した関係者が「そんなに無理しないで」と忠告したが、〝勉強〟をやめなかった。
妻のめぐみさんによると「(家での上田さんは、市長になって)最初の2年くらいはいつも疲れていて、ご飯を食べ終わると、うたた寝をしちゃうんです。お風呂に入ってまた寝ちゃう。だからほとんど会話ができなかったですね。1期目の後半に入って、ようやく明るくなりました」と語っている。
高橋はるみ知事と上田さんとの関係
経産省の官僚で自民党に担がれて知事になった高橋はるみさんと上田さんの関係は端から見ていてもギクシャクしていた。個人としてはそれでも仕方ないが、その影響が道庁と札幌市の関係性に害を及ぼすのは看過できない。そういった話は道、市、双方の幹部から聞いていた。ぼくは高橋さんとも上田さんとも仲が良かった。そこで高橋さんと上田さんの初対談を企画し05年新年号に掲載した。ブンヤさんは随分悔しがったが、やった者勝ちである。
対談でのふたりはさすが大人である。終始ニコニコしてこんな話をした。
(高橋さん)「札幌市と道は年に1回、定期的に行政懇談会を行っています。しかし、それだけではなく、折に触れていろんな機会にもっともっと意思の疏通を図りたいということでは、両者、意見の一致を見ています。イベントではよく会うんですけどね」
(上田さん)「立ち話なんでね、いつも。あらかじめ組織の中で議論を練り上げて最終的に会うというパターンだと、自由な発想ができない。日常的にいろんな事務処理をしながら、総合的な判断をする立場にいる者同士が自由に話すと、新しい発想や提案もできるのではないでしょうか。そういうことを期待するためにも、もっとフランクにたびたび会えるといいなと思います」(高橋さん)「例えば、道州制で道と札幌市の意見交換の場を設定することも、赤い羽根のセレモニーで三越の前で立ち話をして、やろうと決めたんですよね。われわれも無駄に街頭には立っていません(笑い)」
(上田さん)「先日、環境関係セミナーでも、ご一緒させていただき、隣に座っていたものですから、この問題についての懇談も『いいね、やりましょう』という話が出ました。そういうことも話し合い、道と札幌市が打てば響く関係になれば、北海道はまだもっと力を発揮できると思う」
とはいうものの、ふたりはお互いに「あんたのここが大嫌い」という関係だった。高橋さんの周辺は「上田市長は執務室に日の丸も飾らなければ君が代も歌わない。ぶつくさ文句を言う前に、日本人としての当たり前のことをしてほしい、と知事だって思っているはず」と言い、上田さんの側近も「市長は高橋知事の官僚的なところが大嫌い」と述べている。
また、上田市政の前半、町村信孝氏ら自民党から敵視され、いろいろと意地悪をされた。だが、衆院2区選出の吉川貴盛氏が裏で上田市政を手助けしてくれた。一方、民主党政権時代になると高橋さんは意趣返しを受けた。その時、助け船を出したのは同じく2区の三井辨雄氏だった。吉川氏と三井氏は小選挙区の議席を争うライバル。したがって、2区では上田=吉川と高橋=三井の関係がたすき掛けになっていた。
上田さんが言う「市民」の意味
13年に市議会の反対で廃案になったが、上田さんは官製ワーキングプアを解消する目的で公契約条例の成立にこだわった。低賃金で働く人が多い業界の現状を改善すべく、札幌市が先頭に立って賃金体系を見直そうというものだ。
上田さんは大通公園で独りビールケースの上に立ち、公契約条例の意議と必要性を訴えた。
「地方自治法には、最小経費で最大効果を上げろと書いてあります。いいものを安く買うというのは、行政の基本原則ではあると思いますが、それだけでは地元企業、そこで働いている人々、地域の活性化につながっていないということを、私たち行政の側も認識するに至ったのです」
「札幌市は、行政として安ければよいという状況を改めることにより、税金を使う仕事において、地元企業の安定化やそこで働く方々の就労環境の改善を図り、関係業界の魅力の向上や地域を支える地元企業の健全な発展につなげていきたいと考え、公契約条例を提案させていただいている」
ビルメンをはじめ業界団体の圧力に議会は屈したのだが、いまもってぼくは、この時の業界の対応が不思議でならない。
また、上田さんは何事を行うにも市民の理解とか市民の同意などと言っていた。上田さんのいう「市民」とは、町民とか村民とか札幌市民という意味での市民ではない。3期を追える前に本誌のインタビューにこう話している。
「(市議会の)初の代表質問で『市民とはなんぞや』と聞かれました。私は、ひっくり返るくらいビックリしました」
「私が『市民社会』というときの『市民』とは、自らが判断能力のある人間です。その力が存分に発揮できるようにし、市民が主体的にまちづくりをする、それは民主主義のイロハですよ」
世界が戦争と差別主義に溢れている現在、いまこそ上田文雄さんが必要だとぼくは強く思う。
葬儀の後日、上田ファンの友人たちで小宴を開き、上田さんを偲んだ。もちろんメインディッシュは、上田さんの好きだった焼き肉と司法試験前に風邪を引き百円玉何枚かを握りしめて飲んだ「コムタンスープ」。
この次はカラオケで「ふるさと札幌」と「ブラボー札幌」を歌いたい。


