【不定期コラム・編集長のつぶやき】第4回・ほうき職人

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 新年あけましておめでとうございます。2025年も弊誌「財界さっぽろ」をよろしくお願い申し上げます。

 仕事柄、週刊誌には必ず目を通します。とくに週刊文春さんと週刊新潮さんからは毎号勉強をさせていただくことばかりです。

 文春さんの年末合併号は読み応えたっぷりでした。某プロ野球選手や大物芸能人のスキャンダルが世間の耳目を集めましたが、私は読売新聞社主筆・渡邉恒雄さんの特集が最も心に響きました。中でも、清武英利さんの寄稿は思わず唸ってしまいました。清武さんは月刊誌の文藝春秋で「記者は天国に行けない」という連載をお持ちです。記者のイロハ、取材した事件の舞台裏などとても興味深く拝読させていただいています。清武さんの文章力は神の領域です。知識と取材に裏付けされた内容は言わずもがな、文章のリズム、話題の展開をお手本にしたい――と口にすることすら、おこがましいです。

 清武さんは読売巨人軍球団代表時代に渡邉さんと対立し、読売グループから追放された方です。渡邉さんが鬼籍に入り、清武さんの寄稿を読みたいと感じた人も多かったはずです。さすがの文春さんはその期待に見事に応えてくれました。竹田編集長ありがとうございます。

 内容は読んでいただきたいので述べませんが、最後の二段、クライマックスに向けての展開の素晴らさは、なんと表現していいのか。北海道弁でいえば、なぜこれほどまで“読まさる”文章を書けるのか。清武さんは私がいま一番お会いしてみたい方の1人です。

 清武さんの寄稿の中に「記者道」という言葉が出てきます。私もこの世界に身を投じて20年近くになりますが、記者人生を変えてくれた方々との出会いがありました。今回はその一端を記したいと思います。

 入社して2、3年経過した頃でしょうか。20代半ばだった私は、ある道内テレビ局のA社長に取材でお会いしました。その日が初対面で全国紙の元記者でした。インタビューが始まるとAさんはいきなり、まったく取材内容とは関係のないほうき職人の話を始めました。20代半ばだったAさんは、新聞記者として政治、経済を舞台に第一線で駆け回っていました。デスクからほうきを作り続けて文化勲章を受章した方の取材を命じられ、「なぜ自分が…」と不貞腐れながら会いにいったそうです。ところが、取材が終わるとAさんは「私は勘違いしていました。本当に申し訳ございませんでした」と自身の愚かさに気づき、心から謝りました。ほうきへの思い、これまでの人生についての話に感銘を受けたそうです。

 Aさんは「ほうき職人の方に出会っていなければ、今の自分はない」と言い切りました。

 私は以降、数ヶ月に一度、社長室に通うことになりました。ある時、なぜほうき職人の話をしたのかを尋ねました。

 Aさんは「記者として真っ直ぐな道を歩んでもらいたかった」と。それ以上、言葉を続けることはありませんでした。

 私は入社時、先輩記者にこう助言されました。

「とにかく世間で言う偉い人に会いなさい。人数はピラミッド型だが、情報量は逆ピラミッド型だ。なぜなら上に行けば行くほど話せることが多い。それは自ら責任をとれるからだ」と。

 確かに記者は20代の駆け出しから名刺一枚でさまざまな方にお会いできます。知事や市長、有名企業のトップ、芸能人、スポーツ選手……

 ところが、それが当たり前だと錯覚してしまうことがあります。仕事に少し慣れ始めた4、5年後に顕著に現れるかもしれません。Aさんは初対面の私と接し、天狗、生意気になっているきらいを感じ、このままではまずいと思ってくれたのでしょう。

 それから数年後のことです。

 私は会社から「ハコ乗り」で定山渓に向かっていました。ハコ乗りとは取材で政治家の車に同乗して取材することを指します。ホテルの開業レセプション会場に到着し、国会議員と一緒に車を降りました。会場にはたまたまAさんもおり、その瞬間を目撃していました。

 後日、Aさんから「ハコ乗りできる記者になって本当によかった。頑張れ!」と背中を押していただけたのを覚えています。

 Aさんは退任し、いまは首都圏に住んでいますが、出会っていなければ今の自分はいないと心から思っています。記者人生の大恩人です。

 次回はAさんからも学んだ記者に必要な心構えについて綴りたいと思います。

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