【財界さっぽろ 過去記事再録&追記】大腸がん告白の元衆院議員・石川知裕、〝不撓不屈〟の政治家人生

石川知裕氏
3月10日、北海道11区選出衆院議員・石川香織氏の「新春の集い」が帯広市内で開催された。夫で元衆院議員・石川知裕氏からのメッセージが読み上げられ、その内容に多くの出席者は心を痛めた。知裕氏は大腸ガンで肝臓とリンパに転移。これから手術を受けるというものだった。その4、5日前、知裕氏から本誌記者に連絡があり、病の事実を伝えられた。信じられない気持ちで、なんて声をかけてあげればいいのかわからなかった。電話口で明るく振る舞う知裕氏。周囲に心配をかけたくないという人柄が伝わってきた。
知裕氏の座右の銘は「不撓不屈」。まだ50歳という年齢だが、波乱の人生といっていい。2019年の北海道知事選出馬を決断。その際、「財界さっぽろ」3月号で知裕氏の半生を振り返る記事を掲載。今回、再録した上で、知事選後についても記述する。なお再掲載記事は文中敬称略。肩書などは当時のままだ。
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石川知裕の45年の人生は、まさに波乱万丈だ。30代で、衆院議員当選と逮捕という天国と地獄を経験。議員辞職という憂き目にあい、再起を賭けた選挙にも、あと少しのタイミングで出られなかった。石川のこれまでを振り返る。
小沢一郎の「日本改造計画」に感銘
シルベスター・スタローン主演のボクシング映画「ロッキー」。
石川知裕がこれまで見た映画の中で、とくに思い入れの強い作品だ。
石川は自分を奮い立たせるとき、何度もロッキーを見返すという。テーマソングを聴くと自然と燃えてくるというのだ。
石川は45年の人生の中で、ロッキーを口ずさまなければならない逆境を何度も乗り越えてきた。
石川は3人兄弟の末っ子として十勝管内足寄町に生まれた。
地元住民は「小学校時代はスポーツ万能で勉強もできた。石川君はいつも元気があって、素直な子でした」と振り返る。
石川少年の夢は〝赤ひげ先生〟のような医者になること。足寄を離れ函館ラ・サール高校に進学した。硬式野球部に所属。外野手のレギュラーとして活躍した。
石川が政治家の道を本気で考え始めたのは、高校卒業間近だった。その夢に近づこうと、多くの国会議員を送り出している早稲田大学に進んだ。商学部在学中、運命を決める一冊の本と出会う。
1993年5月に発売された小沢一郎の著書「日本改造計画」(講談社刊)だ。
72万部を売り上げるベストセラーとなり、政治本ブームの火付け役となった。同書には、小沢自身が考える政治改革などがつづられている。その後、小沢が主導し、細川護煕連立内閣が樹立。このドラスチックな政界再編劇は、石川の心を大きく揺さぶった。
96年春、師となる政治家は小沢と確信した石川は、小沢事務所の門をたたき、住み込みの書生となった。商学部のセメスター制により、同年9月に大学を卒業。〝小沢奉公〟の日々が始まった。
辞職会見に同席した妻・香織
石川は弱冠27歳にして、小沢事務所の会計責任者となった。事務所に入って8年。石川が一度だけ、親分にもの申したことがあった。道11区からの出馬をめぐってだ。当時、11区といえば、あの中川昭一が盤石な王国を築いていた。
石川は民主党十勝が実施した候補者公募に応じた。小沢は「中川だぞ、勝てるわけがない」と猛反対した。しかし、石川は「故郷の十勝のために頑張りたい」と頑として引かなかった。
小沢は後輩秘書に仕事を引き継ぐことを条件に出馬を了承した。
石川は05年9月の衆院選で、8万4000票を獲得。落選したものの、中川に2万4000票差まで迫った。
07年3月、比例区選出の荒井聰が知事選に出馬したため議員辞職。石川は繰り上げ当選でバッジを付けた。
当選直後、石川は元総理・小渕恵三の「ビルの谷間のラーメン屋」の話を例にあげて、こう語った。
「十勝川温泉には老舗の中川旅館と鈴木(宗男)ホテルがある。石川ライダーハウスは、ようやく軒先を貸してもらい、営業する許可が下りただけ」
国会議員となった石川は、小沢直伝の「ドブ板」「辻立ち」を徹底しておこなった。酪農家に数日間泊まり込み、子牛の出産にまで立ち会った。毎週日曜日の朝には、雨の日も風の日も必ず、十勝大橋のたもとで演説。政権交代の必要性を訴えた。
09年8月の衆院選で、石川は中川に2万9000票差をつけて勝利。父・一郎の時代から40年以上続いた中川王国は崩壊した。
ところが、である。

当選から4カ月が経過した10年1月15日、石川は東京地検特捜部の係官に任意同行を求められた。その後、秘書時代の政治資金規正法違反容疑で逮捕された。
拘留中、絶望の淵に追い込まれた石川を救ったのが、十勝の有権者、支持者、友人からの励ましの声だった。
1日1回、30分だけ弁護士との接見が許されていた。接見室のアクリル板を挟んで、「石川ガンバレ!」「十勝のみんなが待っている」「必ず戻って来い」という手紙やFAXを毎日見ていたという。
2月4日に起訴され、同5日に保釈が決定。石川は民主党を離党した。
11年9月、石川は東京地裁からの有罪判決(禁錮2年、執行猶予3年)を受けた。その翌月、日本BS放送のアナウンサーだった阪中香織と結婚した。

12年の衆院選は新党大地公認で立候補し、比例復活で3選を果たした。
13年3月、東京高裁は石川の控訴を棄却した。一貫して無罪を主張してきた石川は沈思黙考の末、議員辞職した上で、最高裁まで闘い続ける決断を下した。
同5月16日の帯広市内で開いた辞職会見。石川の隣には香織の姿があった。政治家の妻が会見に同席するのは異例中の異例。
香織は本誌に当時の心境を明かしている。
「国会議員である主人の姿を、妻として最後まで見届けたい。どんな場面でも私が逃げずに堂々とすることが、主人への汚名、誤解を解くことにつながると思いました」

語学留学、大学院で山口二郎を師事
その後、石川はフィリピンに語学留学。法政大学大学院の通い、政治学者・山口二郎の元で研さんを積んだ。研究課題は「英国におけるブレア政権誕生までの労働党改革と日本の民主党との比較研究」。
14年9月、最高裁は石川の上告を棄却。有罪が確定し、3年間の公民権停止となった。国政復帰に向けて準備している中、17年10月22日に解散・総選挙がおこなわれた。しかし、石川は公民権回復までたった2週間だけ足りず涙をのんだ。代わりに出馬した香織は初当選を果たし、石川は無報酬の秘書となった。その後、選挙区と東京を行き来きしながら、妻を支えてきた。
石川には最近、大切する言葉がある。政治思想家・マキャヴェッリの格言だ。
「運命が我々の行為の半ばを左右しているかもしれない。だが残りの半ばの動向ならば運命もそれを人間に任せているのではないか」
再びファイティングポーズをとった石川は、知事選という天下分け目のリングにあがる。
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知裕氏は知事選で鈴木直道氏に敗北。その後、2022年の参院選北海道選挙区(定数3)に出馬した。知裕氏は猛烈な追い上げをみせた。各メディアの終盤情勢調査などでは、3つ目のイスに手が届きそうな位置に付けていた。ところが、投開票日の2日前、安倍晋三元総理が凶弾に倒れた。選挙戦最終日、結果、同情票などもあったとみられ自民党の新人候補が当選し、知裕氏は惜しくも涙を飲んだ。
選挙後、知裕氏は本誌記者にこう漏らしていた。
「これだけやってもダメだった。さすがに今回は少し休みたい」
本誌記者も精根尽き果てた本人を前にして、今回は「再起」という言葉を投げかけることはできなかった。これまで数々の困難を乗り越えてきた知裕氏。本日、都内の病院に入院し、3月13日に手術を受ける。快癒を心より願っています。
