【羽磨生泰 創価学会副会長/北海道長】8年ぶりに創価学会 道内トップが交代

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三代会長ゆかりの地から 絶対平和、社会貢献を追求

 北海道内における創価学会の多様な活動を指揮する「北海道長」が、8年振りに交代した。ウクライナでの戦火が長期化する中、平和を訴え続けてきた学会の存在意義は。創価学会三代会長ゆかりの地で新トップに就く羽磨生泰氏を直撃した。(3月31日取材)

5人きょうだいの末っ子で学会三世

創価学会北海道長の羽磨生泰氏は1964年十勝管内池田町生まれ。創価大学卒業後、十勝毎日新聞社で勤務し、その後創価学会法人職員。聖教新聞社北海道支社編集部長、副支社長、創価学会北海道文化会館組織局長を歴任。また北海道創価学会青年部長、書記長を経て今年1月から現職。以下、羽磨氏への一問一答。

――高校まで池田町で過ごしました。

羽磨 : 池田小、池田中、池田高校卒業です。小学生のころは少年野球、中学では軟式テニス、そして高校では当時強豪だった弓道部に所属しました。
 5人きょうだいの末っ子でしたが、すぐ上の兄でも9歳上で、ほぼ一人っ子状態でしたね。父は私が小学校1年(1971年)に公明党の公認候補として池田町議会議員選挙に出て当選。6期24年務めました。
 両親とも忙しく、小さいころは祖母に面倒を見てもらっていたので、おばあちゃん子でしたね。

――会員としては何代目でしょうか。

羽磨 : 厳密には学会三世になりますが、祖父母など私以外の家族は同時に入会していますから、タイミングとしては二世。私自身は生まれた時から会員です。

――創価大学進学・卒業後、十勝毎日新聞社を経て学会の法人職員に。

羽磨 : 勝毎さんでは広告整理部に配属となり、2年ほど勤務しましたが、貴重な経験でした。当時は後に法人職員になって、聖教新聞にかかわるなんて考えもしませんでしたが(笑)
 法人に入ってからは、帯広を振り出しに、札幌で12年勤務して、北見に6年、釧路に4年、そして7年前に札幌へ。地方ではそれぞれの土地柄や人柄がありますので、郷に入っては郷に従うという思いで取り組んでいましたね。

――知らないまちで懐に飛び込むための秘訣は。

羽磨 : 私は身長が187㌢ありまして、頭をいくら下げても、普通の人よりは頭が下がらない(笑)。ですから、たとえばご自宅へ訪問する機会があったら、必ず両手両ひざをついてご挨拶をする、といったことは心がけてきました。
 家族が入会当初、座談会の日のことですが、青年部の方が必ず最初に来られて、両手両ひざをついて私たち家族に挨拶をされていく。終わった後、その青年部の方は必ず最後に部屋を出て、来られた時と同じように「お世話になりました」といって帰っていったのだそうです。
 当時、その振る舞いを見た祖父が「普通に教えても身に付くことではない。それを学会では教えてくれるのだ」と、とても感動した、という話がありました。
 祖父は私が生まれる前に亡くなっているので、私は母から聞いた記憶があります。そうした振る舞い一つで、人の心を動かせるのだ、ということが心に残っていますし、自分もそう心がけています。

「自分がまさかこの立場になるとは」

――1月に就任された「北海道長」は、創価学会の中で方面長という位置付けです。

羽磨 : 話をいただいた時は「そんなことがあるのか」と率直に思いました(笑)
 方面長として間近で接してきた先輩は浜名正勝・野村繁敏の両総主事と、前道長の日下巌総合長と3人いらっしゃいますが、先輩方の活動量、指導力を見ると「とてもマネできない」というものでしたし、客観的に見ていただけでした。
 まさか自分がその立場にとは思っていませんでしたし。話をいただいてから決まるまでに、自分自身でどう決意できるのかを時間をかけて考えたくらいです。

――引き受けるに至った決意とは。

羽磨 : これまでやってきたことと比べて、かかわる人の多さ、責任は比べものになりません。ただ、今までやってきたことと大きく変わるわけではありません。
 日蓮大聖人の仏法を実践すること。つまり会員のみなさん一人ひとりが、自分自身の宿命転換、さまざまな壁に突き当たっても、それを乗り越えて行こうとする勇気、確信をどう強くしていくか。
 信心によってその力を発揮できるようになる、強い心を持てる人を2人、3人と拡大していくことをどこまでも追求する。それが、自分の責任だと思っています。

――現在の会員数や組織体制は。

羽磨 : 国内全体で827万世帯、海外では創価学会インタナショナル(SGI)として280万人のメンバーがいます。海外では前年度の220万人から増加しています。
 その中で北海道は札幌とその近郊を5つに、それ以外の地域を7つに分けて活動しています。

絶対平和の追求が創価学会の出発点

――就任すぐ後の2月末からのウクライナ危機では、世界中で平和を祈る声が高まっています。

羽磨 : 学会の一番根底にあるのは平和主義です。初代の牧口常三郎会長は、思想統制で戦争を賛嘆する風潮の中、そういった権力の統制に反対を貫いてきました。それがもとで投獄されますが、その思いは変わらず、獄死されています。
 同じ時期には第二代の戸田城聖会長も同じく投獄されています。戸田会長は戦後は原水爆禁止宣言、地球民族主義を唱え、誰一人差別すべき人はいない、という主張をしました。
 第三代の池田名誉会長も平和主義を広めるため、世界のさまざまな方々との対話や書籍刊行など、現在まで発信を続けてきています。
 また毎年1月26日は「SGIの日」と定め、平和提言を発信し、今年で40回目を迎えました。
 この三代の会長を「永遠の師匠」と位置付け、これまで貫かれているのが学会の平和主義。創立から91年を経て、絶対平和主義の団体であると認識していただけるようになりました。
 その前提を踏まえ、現在のウクライナ危機は大変憂慮すべき事態です。
 学会として国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対し避難民やウクライナへの人道支援のための寄付を行っています。国連世界食糧計画や国際NGOをサポートする認定NPO「ジャパン・プラットフォーム」などにも寄付しています。
 私をはじめ学会の会員は、仏法者として、一日も早い戦火の終息と人々の安全、平和な暮らしの回復を毎日、強く祈り続けています。

――3人の会長は、いずれも北海道にゆかりがある。

羽磨 : 牧口会長は新潟県の生まれですが、小樽市内で給仕の仕事をしながら、北海道教育大学の前身である北海道尋常師範学校を卒業。道内で初めて中学校教員検定試験の地理科に合格しています。
 戸田会長も幼少期を厚田の地で過ごし、夕張で教鞭をとっています。
 池田名誉会長は、創価教育の国内唯一となる幼児教育の場として、札幌市豊平区に札幌創価幼稚園を創立しました。また、石狩市厚田区に、創価学会で初の墓地となる戸田記念墓地公園を開園しました。
 石狩市厚田区の道の駅のそばには、池田名誉会長が執筆した小説「新・人間革命」冒頭の一節を刻んだ「平和への誓い」の碑があります。
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。 平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」というものです。
 牧口、戸田の両会長が標榜した絶対平和を、地元のみなさんが形にして残してくださったもの。これは学会ではなく、石狩市の方々が実行委員会をつくり、建立したものです。

各地で信仰をつなぐ会員の頑張り

――さまざまな社会貢献活動に取り組まれています。

羽磨 : 実は、北海道が学会内での先駆けになった活動が多いのです。
 まず全国で展開している図書の贈呈。1954年、戸田会長と池田名誉会長が厚田を訪れた際、書籍が少ないという話を地元の方々から伺い、寄贈したのがきっかけです。これまで道内87の小・中・高校、公立図書館に2万8000冊以上の贈呈をしています。
 また池田名誉会長が創立した民主音楽協会による学校コンサートは、これまでに道内で320公演、805校の児童・生徒に生の音楽を届けてきました。これも全国に先駆けて取り組んだもの。1973年に上川管内の士別市で、バレエの「くるみ割り人形」を上演したのが最初です。
 また池田名誉会長は北海道を世界一の理想郷に、と道内の青年に大きな期待をかけて来られました。
 その中で、全国に先駆け今から40年前に道内で初めて開催したのが青年主張大会。20代、30代の青年が自らの壁をどう乗り越えるのか、そのためにどう頑張っているかを主張するものです。学会の会館に加え外部の会場も使い、地域の方々に参加してもらっています。
 道内は過疎や人口減少が全国よりも進んでいますが、その中でも厳然と信仰を持った青年がいます。私たちや女性部、青年部、さらには未来部(小・中・高校の会員部門)も一体となって育てていこうという場、体制をつくっていく。
 この2年以上、コロナ禍で人が集まることが制限される中、各地で使命感、責任感を持ったみなさんが、オンラインの活用など知恵と工夫を発揮してきたことは、誠に尊く、素晴らしいことです。
 それぞれが様々な課題を抱えています。全道にいる一人ひとりとつながり、一人を励ましながら、共に乗り越えていきたい、手を携えてともに肩を組んで勝ち越えていきたいという思いです。
 人生において直面するいかなる困難をも前進のバネとしていく、変革の生き方を実践する一人をさらに二陣三陣とこの三代城・北海道に構築していくこと、それが私自身にとっての最大の戦いだと思っています。

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