石田礼助 国鉄総裁【1965年2月号】

写真左が石田礼助氏
依田勉三はいとこ、いまの青函連絡船は危険だ
依田勉三といえば、十勝開拓の祖としていまなお語り継がれている。そんな依田をいとこに持つのが石田礼助だった。石田は三井物産の社長を務め、78歳で国鉄総裁となった。
石田が残した名言がある。「粗にして野だか卑ではない」というもの。
作家・城山三郎が綴った石田の自伝タイトルにも使用されている。
言葉が雑で乱暴でも、決して卑しい行為をしないという意味。石田が国会に呼ばれ、自己紹介でこの言葉を発した。
並み居る議員に対して「国鉄が親方日の丸体質になったのは、あなた方にも責任がある」と言ってのけるなど、気骨ある実業家として知られた。
当時、札幌では市内を横断する鉄道を高架化する動きが高まっており、期成会もつくられていた。
ただ、石田はそれよりも大切なことを、こう力説していた。
「函館本線の複線化、苫小牧方面の高速化、それに電化の問題。電化は後回しにしても複線化だけは、早急にしなければならない」
もう一つ、青函連絡船の危険性も指摘していた。
「いまごろ戦時標準船を使っている国などどこにもない。外国では貨物でさえ戦標船というと、荷主がおっかながって任せない。それが堂々と津軽海峡の連絡船に使っているんだからひどい。こりゃ、重大なことだ。青函トンネルはもちろん大事だが、一日も早く戦標船をなくすことだ」