【無料公開】「とんねるず」が“小港さん”とモノマネ・港浩一氏(札幌西高校卒)がフジテレビ新社長
数々のヒット番組を製作してきた道産子がフジテレビの社長に就く。札幌西高校卒の港浩一氏。本人と同期生の話から浮かび上がる青春時代は、どこかフジ黄金期のキャッチフレーズと重なる。楽しくなければ港じゃない!
木梨憲武演じるキャラのモデルに
学校祭のステージに立つ8人の男子生徒が喝采を浴びていた。場所は札幌西高校。50年以上も前のこと。
8人は「長崎は今日も雨だった」などのヒット曲で知られる「内山田洋とクール・ファイブ」のコピーバンドだった。グループ名は「禿山田宏司と狂ファイブ」。メンバーだった1人は「バンドマスターの山田は額が広く、薄毛だったので……」と言う。
「狂ファイブ」というグループ名と相反し、8人は本家の曲を真面目に練習してマスターし、本番に臨んでいた。音楽をダウンロードする世代には通じない表現かもしれないが、レコードのA面曲もB面曲もすべてこなせたという。
リードギターを担当した宮田昌伸さんは懐かしむ。
「いつか覚えていませんが、その時の音源を焼いたCDをもらいました。今も手元に残しており、たまに聞きますよ」
8人にとって、いつでも情景がよみがえるような青春の輝きである。
狂ファイブが記憶に残っているのは何も当事者たちだけではない。ユニークなグループ名も相まってか、今も同期生たちの間で語り草になっている。
西高21期生8人で結成された狂ファイブ。その面々の中に、後に、フジテレビで数々のヒット番組を手がけた男がいる。
「港はコーラスメンバーの1人で、MCもやっていました」(ベースを担当した傳法肇さん)
6月28日付人事で、フジテレビジョン社長に就く港浩一氏だ。
港氏は1976年にフジテレビに入社。おニャン子クラブを生んだ「夕やけニャンニャン」、「とんねるずのみなさんのおかげです」など、数々のヒット番組をディレクター、プロデューサーとして手がけてきた。
製作現場を離れた後は、フジテレビの常務取締役などを歴任。2015年には、フジサンケイグループの共同テレビジョンの社長に就任していた。
共同テレビは「世にも奇妙な物語」や「古畑任三郎」シリーズ、「チコちゃんに叱られる!」、「孤独のグルメ」などを手がけている有力な番組製作会社。そのトップである港氏を、テレビ業界で知らない人はいない。
さらに、あるキャラクターがきっかけで、知名度は業界内にとどまらない。
石橋貴明演じるテレビプロデューサー「ダーイシ」と、木梨憲武演じるディレクター「小港さん」。人気バラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげです」のコントで、たびたび登場したキャラだ。
「楽しくなければテレビじゃない」がフジテレビのテーゼだった頃である。
その小港さんのモデルが、現場のテレビマン時代の港氏だった。
自身のパロディーキャラが誕生したいきさつを港氏が明かす。
「石橋さんが石田プロデューサーをオーバーにまねたキャラクターが大人気になり、ストーリーを作る上で突っ込み役が必要となって小港さんが誕生しました。ものまねがうまい木梨さんが熱心に研究して作り上げ、楽しく演じてくれました」
小港さんのキャラは今でも、少なくない人の記憶に残っている。今回の社長就任を伝えるネットニュースの中には「フジ新社長に小港さん」といった見出しもあったほど。
狂ファイブのコーラスを港氏と一緒に担当した井原慶児さんは「小港さんのキャラクターは彼の特徴をよく捉えていた」と話し、さらに続ける。
「高校時代から港はおもしろい男でした。プロレス好きでもあった。当時は猪木と馬場の時代です」
同期の酒井康子さんも港氏のプロレス好きをうっすらとではあるが覚えている。
「港さんと一緒のクラスになったことはないのですが、彼はプロレス同好会を作りました。たしか卒業アルバムに、プロレス技を披露している写真が載っていたはずです」
プロレス同好会は港氏ともう1人の友人で立ち上げた。理由がふるっている。
「わずかですが学校から部費も出て、その部費を使って2人で、中島体育センターで行われるプロレスの試合を観に行きました。リングサイドの席で。実は、同好会設立の1番の目的がそれでした。でも、なにか活動をしていないとさすがにまずいので、学校祭の時に教室内にリングをつくり、技をかけているところの写真を撮ったりしました」(港氏)
1浪したからこそフジに入社できた
港氏は1952年、道南の木古内町生まれ。札幌市白石区内の中学校を卒業し、西高に入った。札幌はまだ地下鉄が走っていない時代だ。中央区宮の森地区にある西高にバスを乗り継いで通った。
「当時の西高は1学年10クラスあり、その大半が近くの中学校の出身者でした」(酒井さん)
白石区内の中学校から進学した港氏は少数派だったが、すぐに話題の人となる。
1年生時に同じクラスだった傳法さんは「港は入学早々、連続で遅刻をしました。3日連続で。それで母親が学校に呼び出されていました。バスを乗り継いで通っていたから、大変だったのだろう」と話す。
しかし、実は、連続遅刻の本当の理由はバス通いではない。
港氏は「あの頃、朝のテレビで音楽情報を扱う『ヤング720』という番組をやっていて、それをどうしても観たくて。最後まで観てから自宅を出たら、学校に間に合いませんでした」と笑う。
港氏は小学生の時にビートルズにはまり、マッシュルームカットにしていたほどの音楽好き。とはいえ入学早々に、確信犯的に連続で遅刻をやってのけるのだから、大胆きわまりない。
もっとも西高は昔から校則が厳しくなく、自由な校風として知られる。港氏が卒業した数年後には、生徒の運動によって私服登校が認められている。
当時の世相の影響もあったかもしれないが、同期の荒木毅さんは「やりたいことをやらせてくれる学校でした。同期生の多くが高校時代が1番楽しかったと言っています」と振り返る。
荒木さんはジャズ好きが高じ、在学時にSTVラジオの深夜ジャズ番組にレギュラー出演していた。
自由な高校時代を港氏も謳歌したようだが、大学受験では1年間の浪人生活を経験。早稲田大学文学部に進んだ。
ところが、人生、何が幸いするかわからないもの。1浪したからこそ、フジテレビに入社できたという。
2019年の同窓会誌のインタビュー記事で港氏はこう語っている。
「フジテレビに入社できたのは大学受験で1浪したからなんです。僕が就職活動をした年はたまたまフジの採用試験がありましたが、その前の5年間、後ろは2年間も新卒採用がなかったんですよ。オイルショックの影響でしょうが、とにかく1浪が幸いしました。1浪したのは、西高生活が楽しすぎたからでしょう」
大学時代も高校同期との交流は続いた。飲みに行ったり、一緒にバイトをしたり……東京の大学に通った井原さんは「港は私の部屋に何度も泊まっていった」と話す。
日本を楽しくする風を吹かせよう
ただ、港氏はおちゃらけた学生生活を送っていたわけではない。中学校も一緒だった宮田さんは別の一面を知っている。
「港は実は成績優秀で高校時代、全国模試の国語で1位になったことがありました。大学生時代に港と2人で飲んだ時には、真剣な顔で『宮田、神はいると思うか』と彼から問われたのを覚えています」
社会人になった後は高校同期との交流機会は減ったようだが、港氏の結婚式には狂ファイブの面々が招待され、演奏した。
札幌で開かれた全学同窓会に港氏が顔を出したことも。西高出身者は47歳の年、同窓会事業の幹事期になる。事業の目玉は総会後の懇親会だ。
21期生が幹事期だった懇親会で司会を務めた酒井さんは「港くんは東京から駆けつけ、キューだしをやってくれました」と話す。
共同テレビの社長になった後の19年5月、港氏は同窓会東京支部総会で講演を引き受けている。演題は港氏らしく「日本を楽しく」。講演の模様を書いた同窓会誌の記事によると、会場から何度も笑いや拍手が起きたという。
「講演には若い方も多く参加されており、西高同窓生のみなさんで日本を楽しくする風を吹かせましょう、という思いで話をさせていただきました」(港氏)
港氏は70歳。同級生の中にはリタイヤ組も珍しくない。西高21期生のWEBSITEの掲示板には、同期生の訃報を知らせるレスもある中、傳法さんが書いたこんな記述があった。
〈港浩一がフジTVの社長に就任することが決まりました。本人談『ぼくもびっくりしています』〉
卒業から50年以上経った今も、同期生との交流は続いているのだ。
今回、窓口の担当責任者から多忙のため取材対応は難しい旨の連絡が1度はあったが、その後、母校のことならと港氏は電話取材に応じてくれた。港氏に「西高同期はどんな仲間ですか」と尋ねると、間を置かず「会う機会は少なくなったけれど、人生の友人です」と答えた。