【独自・無料公開】日テレ支配の果てに経営統合……独立独歩だったSTVが経営主導権を失った2010年「クーデター失敗」の一部始終【前編】

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伊坂重孝元STV会長(右・2005年撮影)

 日本のテレビ業界に激震が走った、日本テレビ系列4社の経営統合発表。その1社である札幌テレビ放送(STV)は長らく独立独歩の経営だったものの、ある時期を境に日テレ支配を許し、今日に至っている。月刊財界さっぽろではその“決定的瞬間”の一部始終をかつて報じていた。当時の記事をもとに再掲する前編。

放送法省令改定で「巨大テレビ局グループ」が可能に

 11月29日、日本テレビ系列で大阪の「読売テレビ」、名古屋の「中京テレビ」、福岡の「福岡放送」そして北海道の「札幌テレビ放送(STV)」の4社が経営統合し「読売中京FS(FYCS)ホールディングス」を設立すると発表した。

 FYCSは共同株式移転で4社を完全子会社化。FYCSの株式20%超を日本テレビホールディングスが持ち、持分法の適用を受ける子会社とする。読売新聞グループも同じく15%程度の株式を保有する。

経営統合による組織体制の変更(日本テレビホールディングス公開資料より)

 所管省庁の総務省ではこれまで「マスメディア集中排除原則」のもと、言論の多様性を確保するため、同一企業が複数の放送局を傘下に収めることを禁じていた。

 だが地上デジタル放送の開始による多額の設備投資の必要性から、経営体力のない地方局が存続を危ぶまれることになった。そこで経営基盤強化のため、この原則を緩和。放送法が改正され「認定放送持株会社」のもとで地上波キー局とネットワーク系列局が傘下に入ることを認めた。

 その上で、持株会社の傘下に入れる地上波放送局の数を最大12県(放送エリア)分までとしていた関連省令を昨年3月に改定。この省令では、東京のキー局は1都6県にまたがるエリアで放送しているので7局分、大阪の準キー局は同じく2府4県で6局分、名古屋は3県で3局相当としていたが、これを撤廃した。総務省の認可が前提だが、日テレを加えて1都1道2府14県を放送エリアにする、まさに巨大メディアグループが誕生するわけだ。

 これだけの大ニュースが事前には一切漏れず発表となったわけだが、読売テレビ以外はいずれも日本テレビの役員クラスが送り込まれ、代表権を握っている。読売テレビも読売新聞出身者が代々代表を務め、連携を取るには何の不都合もない。省令改正を前提に、各社の日テレや読売出身者を中心として周到な準備が進められていたと見られる。

 日テレは発表同日のプレスリリースで「新たな協力体制を構築して経営基盤を安定させ、将来にわたり良質な情報や豊かな娯楽を安定的に視聴者の皆様に提供し、地域社会に貢献するという社会的責務を果たしていく決断をしました」と説明する。

 他方、道内マスコミ関係者はこのように話す。

「独立独歩の経営を続け、視聴率も収益性も道内民放5局で断然トップを走るSTVが、日テレの支配を直接的に受けるようになって10年あまり。これで名実ともに子会社となってしまう」

道内民放トップの座を築き“天皇”と呼ばれた伊坂重孝氏

 STVは創業以来長年にわたり、プロパー社員出身者が社長を務める独立独歩の経営を続けてきた。とくに1988年から11年にわたり社長を務めた伊坂重孝氏の時代には、夕方の情報番組「どさんこワイド」が大ヒットして、視聴率3冠王の原動力に。現在に至る、道内民放トップの座を確固たるものにしたのが伊坂氏だった。

 局の内外で“天皇”とも揶揄され、会長・相談役に上がってからも現場の局長会議に出席して発言するなど、強固な院政を敷いてきた伊坂氏。その権勢の象徴が、開局40周年を記念して社屋隣接の土地に建設されたイベントホール「スピカ」事業だ。最終的に50億円とも言われる建設費が投入され2000年4月に開業したものの、芸術性重視の構造で使い勝手が悪く、当初から赤字続き。10億円以上の赤字を計上する年もあったとも言われる。

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札幌メディアパーク・スピカ(2007年撮影)

 時折しも、地上デジタル放送への対応で多額の設備投資が必要だった時期。急激な伸びを見せるインターネット広告に押されてキー局から配信される広告の出稿が減少した上、景気低迷もあって生命線のスポットCMが減っていた。

 そのため伊坂氏が06年に相談役を退任して間もなく見直しの検討が始まり、08年3月にスピカは閉館。都合、100億円以上の損失を出した上、わずか8年で解体されてしまった。

 スピカの閉館でSTVが伊坂氏の“呪縛”から開放されたのと同年の6月、日テレから読売新聞出身の三山秀昭氏が送り込まれてきた。

 三山氏は読売巨人軍球団代表時代、一場靖弘投手への「栄養費問題」で一度失脚。読売グループ総帥の渡辺恒雄氏と、その盟友で日テレ会長の氏家齊一郞氏のホットラインで読売テレビに在籍していた。

 当時、STVで代表権を持っていたのはプロパーで伊坂氏の腹心として動いてきた社長の鈴木輝志氏のみ。だが三山氏はキー局出身者として初めて代表権を得ることになった。

 さらに日テレの攻勢は続き、翌09年6月には常務の島田洋一氏が送り込まれ、日テレ出身者として初めて社長に就任。鈴木氏は会長に上がった。

 ただこの時点では、島田氏つまり日テレ側が実権を握ったわけではなかった。会長の鈴木氏に加え副社長の舟橋隆治氏も代表権を新たに得たためで、専務の三山氏を含めSTVのプロパー・日テレ側2人ずつが代表権を持ち合って一応のバランスを取った。

 そして翌10年春、STVを揺るがす大事件が勃発する。会長の鈴木氏が日テレによるこれ以上の侵食を阻止するため、乾坤一擲の策に出たのだ。

 その一部始終を暴いたのが、月刊財界さっぽろ2010年7月号掲載の「STVでクーデター失敗、氏家齊一郎に返り討ちにされた鈴木輝志」という記事だ。後編では、当時の記事を掲載する。

※後編はコチラ

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