【無料公開】“道警を震撼させた男”稲葉圭昭・原田宏二が警察腐敗を抉る【前編】
鹿児島県警察元生活安全部長による内部通報騒動では、県警本部長が不祥事の隠蔽に関与した疑惑が取りざたされ、北海道警察でも旭川で起きた女子高生殺人事件の犯人が、旭川中央署の現役警部補と不倫関係になったことが報じられた。まさに警察組織そのものの信頼が揺らぐ事態となっている中、とくに道警の不祥事で想起され未だWeb・SNS上で語り継がれているのが、2002年に起きた通称「稲葉事件」と「道警裏金事件」だ。
稲葉事件は当時道警生活安全特別捜査隊班長だった稲葉圭昭氏が覚せい剤取締法違反、銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕・有罪判決を受けたもの。また道警裏金事件は、架空の捜査協力者がいたことにして費用を本部に請求、その金を警視以上の幹部が私的に流用していたもの。この事件では元北海道警察釧路方面本部長の原田宏二氏が、記者会見で裏金づくりの実態を公表し3000人以上の道警職員が処分された。両事件ともに自殺者を出すなど、道警史上最大の汚点となっている。
稲葉氏はこの事件で懲役9年の実刑判決を受け、11年9月に出所。のちに著書を複数刊行し、そのうちの1冊『北海道警察 日本で一番悪い奴ら』(織川隆、2003年講談社刊)は映画化もされた。
本誌財界さっぽろ2014年2月号・3月号では、稲葉氏と原田氏による対談を実施。2人が事件当時の状況を克明に語った。以下、前・後編に分け、記事を全文無料公開する。
ウソだらけの捜査手法でノルマ達成
――お二人は北海道警察の現職時代、上下の関係だった期間がありますね。
原田 : 私が熊本県警の捜査2課長から道警に復帰したのが1982年。復帰先は道警本部機動捜査隊長のポストでした。そこに稲葉が隊員として在籍していました。それが出会いです。
――稲葉さんはいつから機動捜査隊に。
稲葉 : 79年から。その前は柔道特別訓練隊員として機動隊にいました。
原田 : 彼は柔道やっていたからね。強かったんだよ。見た感じすごく細くて、いつブン投げられるのかとヒヤヒヤするんだけど、投げられない。最後には勝つ。
稲葉 : 中学から柔道をやっていて、昇段試験のときに出会った道警警察学校の柔道師範に、半ば強制的に道警入りが決められてしまった。進学した北海高校も、東洋大学も、その師範の命令。道警には柔道の特別枠で採用になった。警察学校で半年、交番研修で半年、その後はすぐ機動隊ですよ。朝から晩まで柔道。大学生と一緒。やってられない。「毎日、こんなことやっていていいんだろうか」と考えてましたよ。それで柔道をやめるために機動捜査隊に回してもらったんです。
――一緒の期間は。
原田 : 私は1年で道警本部の防犯部生活課長に転出してしまった。
――再会は。
稲葉 : 原田さんが転出したあとも、ちょこちょこ会っていた。家に行ったりもしてましたね。
――何か通ずるものを感じたんですかね。
原田 : 変な奴だったからじゃない?
稲葉 : 原田さんは、機動捜査隊のノルマをなくしたり、居所がわかっているのに指名手配してから逮捕するような悪習をすべてやめた。裏金化されていた日額旅費も、俺たちのほうに回ってくるようになった。ところが、1年で異動したらノルマは復活し、おりてくる金もまた減った。
――仕事上での再会は。
稲葉 : 旭川中央署のとき。原田さんは署長。俺は警部補試験に受かって、北見署から札幌に帰る予定が、横やりが入りまして。
――原田さんの引きが。
原田 : 当時、私は人事担当の警務課長。人事作業をやっていると、稲葉が警部補になって札幌に帰ってくる案になっていた。ちょっと待てと。1回どこかで止めろと。課員が「どこらへんで止めますか」って聞くから、旭川で止めておけと。人事というのは上から決まっていくもので、私の行き先は旭川に決まっていた。
稲葉 : 90年ですね。旭川中央署刑事第2課の暴力犯係長として赴任したのは。
――署長と係長の関係で接点は。
稲葉 : 自分はありましたね。間には課長、次長、副署長がいるけれども直接、署長室に呼ばれる。それで事件についてどうなのかと聞かれた。
原田 : 稲葉の捜査のやり方を見ていて、きちんとした情報源があるんだなということがわかりましたよ。
――それが銃器対策室スタート時の招聘につながる。
原田 : 93年に道警本部防犯部保安課に銃器対策室ができました。当時、私は防犯部長。稲葉を持ってこようと考えた。
稲葉 : 呼ばれるんじゃないかなと思っていたら、案の定。俺自身、昔から拳銃捜査とか覚醒剤捜査が好きでした。協力者を使って情報を取り、それをもとに捜索差押許可状、いわゆるガサ状を取得してガサをかけ、情報通りブツが出てきたら逮捕する。これは捜査の基本で、好きな手法。ただ、やり方としては違法だらけ。協力者から得るのは口頭の情報。ガサ状を申請するには具体的にブツを特定する調書が必要だけど、これは作文。自分で勝手に書いていた。それで裁判所にガサ状を請求する。
原田 : そもそもガサ状取るのがデタラメなんだから。
稲葉 : 調書はウソだから。120%ウソ。でもね、悪いことをやっているというのはわかっているんですよ。正しいやり方は理解しているから、それほど困った問題ではなかった。目先の実績をあげなきゃいかんし、実際に覚醒剤被疑者、拳銃被疑者を捕まえることができるわけだから。もちろん、傷害事件とか窃盗事件ではそんなことをしなかった。
原田 : なるほど。そういう理屈もあるんだ。
稲葉 : ブツを出す仕事に対してはやっていた。ウソじゃないのは被疑者の名前と住所くらい。犯罪事実もウソだから。
警察の中で金くれ、休みくれは禁句
――銃器対策室はどんなところでしたか。
稲葉 : 刑事部から防犯部への配置転換はめずらしかった。そこがすごく嫌だった。刑事部でやっていれば結構知り合いもいるけど、防犯部には誰もいない。借りてきた猫みたい。防犯部は人が少ない。そこに警部クラス生え抜きがいる。そいつらが悪いの。俺に対して、あることないこと言う。それをみんな信用する。みんな帰ったあと、俺が机をガサしているって。誰かが入ってきたら、俺があわてて自分の机に戻ったって。本当にそういう噂を立てる。
――それはイジメですね。
原田 : 一方、当時の刑事部の雰囲気としては、別に稲葉が望んで防犯部にいったわけじゃないけど、刑事部の暴力団捜査の中でやっていた拳銃摘発の仕事を、警察庁が決めたこととはいえそっくり持っていかれた。そこには予算もある。それにくっついていった稲葉が、よくも悪くもガンガン実績をあげだした。刑事部のやっかみも間違いなくあった。
――刑事、防犯両方から疎まれた。
原田 : 96年に銃器対策部門が独立して銃器対策課になるんだけれども、その後半の頃、稲葉にいろんなことがあって拳銃捜査を外された。そのとき稲葉に対するいろんな風評を広め、とんでもない奴だという雰囲気をどんどんつくり上げていく。そこには刑事部の動きがあった。
稲葉 : よくないのは誰もかばってくれないこと。俺を使った人間がいたわけでしょ。何人も。そいつら知らんぷりだから。残されたのは俺一人。本当に一人だけ。やってらんないよ。
原田 : それで彼は崩れていくわけですよ。
稲葉 : 崩れるのは早かったね。もういいやみたいな。
――原田さんは防犯部長になったのも束の間、すぐ異動になっていますね。
原田 : 銃器対策室ができたのが4月。半年後の10月には釧路方面本部長に出ましたからね。降って湧いたように銃対室ができたけど何もない。捜査員もいなければ金は裏金になっている。捜査協力者の管理システムもない。これは絶対、途中で問題が起きるという認識はあった。
――原田さんが異動すると聞いたときは。
稲葉 : そういう組織だから。ただ、これから大変だなと。当然、金なんておりてこないだろうし。実際に裏金をつくっているのは下だからね。銃器対策の予算は結構大きかったと思うよ。
――全然おりてこない。
稲葉 : 拳銃が出たときに1万円くらい。以前、原田さんから「金はどうしてるんだ」って聞かれたことがあった。拳銃が出たらと答えたら「そうじゃない。事前に金を使って情報を取ってやらなきゃだめだ」って言われた。でも、実際には金なんか出てこない。言ったって出ないわけだから、こっちも言わない。
原田 : 基本的に警察の中で金の話はだめ。金くれ、休みくれは禁句。
――お金は自腹で。
稲葉 : 100%自腹。
――でも、そんなにお金はないでしょう。
稲葉 : 貯金を下ろして。
――覚醒剤の密売は。
稲葉 : それはずっとあとのこと。そういうことをやるようになったのは、逮捕の1年半前じゃないかな。やってられねえやって。ただ、やってられねえという気持ちは前からあった。なぜタガが外れてしまったのかというと、拳銃の首なしとか、自首とか、やっていることといったらヤクザと変わらない。いや、ヤクザに拳銃を持たせて自首させるなんてヤクザ以上。覚醒剤の密売なんて可愛いもんとはいわないけれど、上が裏金をやっている。そんなことは若い頃から知っていて、なんだ、お前らばっかりよって。1円盗むのと100万円盗むのとどっちが悪いのって話になる。同じでしょ。
警察もヤクザも手玉に取った協力者
――覚醒剤130㌔、大麻2㌧が国内に流入したという「泳がせ捜査」は本当にあったんですか。
稲葉 : それ自体は2000年のことだけど、その前振りというか「警視庁登録50号事件」というのがある。元暴力団幹部でIという捜査協力者が銃を売る東京のヤクザを見つけてきた。そこで銃対課は、都内でヤクザが拳銃の売り込みにきているから、その譲り受けを道警と千葉県警と警視庁の合同のおとり捜査でやりましょうと、警視庁指定の登録事件に認定してもらった。でも、これもウソっぱちの話。売り込みになんかきていない。こっちから拳銃はないかと声をかけて売買を依頼する。それこそ犯意誘発型の捜査ですよ。それで拳銃を8丁くらい買っている。300万円か400万円、払った。
――それはIが窓口になっていたと。
稲葉 : そう。Iはさまざまな情報を持ってきた。俺も銃対課もIが入手してくる情報に魅せられていった。そういうことがあってIが「拳銃を大量に密輸させるから、それをパクるというのはどうか。そのかわりシャブを入れたい。協力してくれないか」と持ちかけてきた。そして、香港に覚醒剤密輸ルートを確立している東京のヤクザを俺に紹介した。Iの提案は、香港から薬物を3回、北海道に密輸。道警は税関に根回しして、これを見逃す。4回目に拳銃200丁密輸して、Iの知っている中国人に荷受けさせる。そこを銃対課がガサをかけてパクるというものでした。その話を上にもっていったら、OKになった。おそらく課長止まりだったと思う。その課長が決断し、銃対課指導官が小樽の税関に走ってOKをとってきた。
――税関も……。
原田 : 警察にノルマがあるように、税関にも水際での拳銃や薬物摘発の実績が求められる。そういう背景があるので、昔から税関と警察は互いに実績を貸し借りする習わしがある。
稲葉 : 銃対課からは指導官と課長補佐が函館税関小樽支所まで出向いて密輸する薬物を検査にかけずに通関させるよう交渉した。税関もそれを承諾し、荷揚げの場所は石狩湾新港に決まりました。1回目の計画の実行は2000年4月。130㌔の覚醒剤です。積み荷の名目は「トイズ」。そのコンテナをIの親戚の空き地に置いた。Iが来てコンテナの中を開けると、おもちゃがごっそり入っているその奥に130㌔の覚醒剤が隠されていた。それをバッグ2つに分けて、Iがその日のうちに70㌔くらいを車に積んで東京に運びました。売り先は決まっていたんでしょう。あとの半分は俺が預かって、アジトとして使っていた札幌のマンションに運び込んだ。重たかった。フラフラになった。ああいうものって重たいね。課長補佐に130㌔の流入を報告したら「これで俺たちも重たい十字架を背負ったな」とポツンと言った。
――その後、残り半分の覚醒剤は。
稲葉 : 送ったような気がする。指定された住所に。
――普通の宅配で。
稲葉 : そう。ところがIとは、その直後に連絡がつかなくなってしまった。電話してもつながらない。マンションにいくと車はあっても帰ってこない。しばらくしてIに紹介された東京のヤクザから連絡があった。驚いたことに、今回の密輸の件を知らないという。聞けば東京のヤクザはIを連れて香港に行き、そこでマフィアを紹介したらしい。そこで面識を得たIはヤクザを出し抜いて覚醒剤の密輸を自分だけで進めたようだった。Iは香港に何回も行っている。それは俺が国際電話をかけて確認しているから間違いない。Iに騙されたと、このとき悟った。
原田 : 警察もヤクザも手玉に取った。
稲葉 : すごい奴だったね。
――Iが失踪したにもかかわらず、2回目も入れた。
稲葉 : 東京のヤクザが自分たちにも入れさせろと言ってきた。そのヤクザに拳銃を用意できるのか確認すると、銃を持ってくるところまではできるが、人はつけられないと。この件を上司に報告したところ、意見は分かれた。気の弱い次席は完全にビビッて「断ってこい」と俺に命令した。俺の腹の中は〝ふざけるな、バカ野郎〟ですよ。東京でヤクザと会って、うちの上司は断れと言っているが、関係ないからやれと。そのかわり拳銃は頼むと念を押して帰ってきた。
しばらくしてヤクザから「大麻を入れるから手引きを頼む」と連絡があった。それを課長補佐に言ったら怒り出してね。でも、こちらは覚醒剤密輸の弱みを握られている。約束を反故にしたら覚醒剤の件をばらされるよって言ってやった。
――大麻が石狩に入ってきたのは。
稲葉 : 4カ月後の8月。税関への根回しは済んでいたはずだったが、税関もビビっちゃったんだろうね。大麻の入ったコンテナは、いったん保税倉庫に回された。倉庫といっても外なんだけどね。結局、2日間足止めされたけど、最終的には税関を説得して、2㌧の大麻は東京のヤクザに引き渡された。
――どう運んだんですか。
稲葉 : 俺は見ていないけど、トラックかなんかだろう。税関に申告された積み荷の内容は「箸」。大きさはLP盤くらい。袋に密封されて厚さが5㌢に圧縮された状態で2000枚。あとで5枚くらい送ってもらった。1枚40万円くらいで売っているはずだから、相当儲けたでしょう。
――3回目は入ってこなかったのか。
稲葉 : もうこの頃になると、泳がせ捜査の意欲は急速にしぼんでいた。01年の人事で、俺は銃対課から生活安全部生活安全特別捜査隊に異動。次席を始め上司たちも他部署へ移り、泳がせ捜査の継続は困難。最後に税関にこれまでの借りを返すため、俺が用意したマカロフ20丁を小樽港で税関に摘発させました。これで銃対課と税関の泳がせ捜査は、覚醒剤130㌔、大麻2㌧を国内に流入させたという事実を闇に葬り去り、完全に幕引きとなった。
俺は責任をとった 後はあんた方の番
――このとき原田さんは。
原田 : 私は95年に道警を退職しているので、ほとんど知らない。その当時は保険会社に再就職していて、稲葉も時々は会社のほうに来ていた。
稲葉 : 愚痴こぼしに行くみたいな感じでした。あの時はもっと早く行っていればよかったかもしれない。結局、悪いことをやっていると、誰にも会えなくなってしまう。
原田 : あるときからあまり顔を出さなくなった。どうしているのかなと思って心配していたら、02年7月、覚醒剤取締法違反で現職警部が逮捕って、稲葉のことがバーッと出た。何が何だかわからない。かつての部下だった現職の幹部連中に聞いても、みんな口をつぐむ。かなり厳しく緘口令が敷かれているのがわかった。接見禁止で稲葉の奥さんだって会えない。まったく情報が入ってこなかった。最初に変だと思ったのは、小樽の副署長から釧路の生活安全課長になっていた人物が札幌市内の公園で自殺したとき。彼は稲葉が逮捕されたときの直属の上司ではない。ただし銃対課時代は指導官で稲葉の上司だった。何かあるなと思った。その後も人が死んでいく。一番心配したのは稲葉が死ぬんではないかということ。実際に何回か拘置所で自殺未遂をやっている。
稲葉 : やりましたよ。ズボンのジッパーを使ったり、布を巻いて首を吊ろうとしたり。そのたびに刑務官に見つかって保護房に入れられた。天井が高いんだよね。首吊れないように。窓もないし。下に、ご飯の入る入口があって、トイレも、水飲みも下についている。明るい裸電球がバーンとついている何もない部屋。
――そのときが一番つらかった。
稲葉 : そうですね。それが徐々に徐々にまともに戻っていって、いろいろ将来の見通しとか立てられるようになって、気持ちも落ち着いてきたし。
――でも一時はすべて背負い込むつもりだった。
稲葉 : 背負い込むも何も、やったことは事実だからそれは認めるしかない。あのときは何を言っても信用してくれないし、話すときじゃない。さわりだけ触れて、あとで徐々に話していこうというふうには思っていた。裁判が終わるくらいのときには心も落ち着いていた。真面目に務めて、1日も早く帰ってこなきゃならんなと。親のこと、女房のこと、子どものこと、全部折り合いをつけて、刑の執行中に親が死んでもしょうがないと思って務めに入った。11年9月に刑期満了。一応、俺は責任をとった。後はあんた方の番。それは本人たちが一番わかっているはずだよ